京大坂道京大坂道(きょうおおさかみち)は、高野七口と呼ばれる7つある主たる高野参詣道の内の一つで、京都や大阪からの高野街道が紀の川を渡り、和歌山県橋本市学文路から高野町・極楽橋を通り、高野山の入り口となる不動坂口に至る参詣道である[1][2]。 特に、京大坂道不動坂(きょうおおさかみちふどうざか)と言った場合は、京大坂道における「不動坂」と呼ばれる一部区間のみを指す[2]。 国の史跡「高野参詣道」の構成資産の一部として「京大坂道不動坂」が指定された[3]。 ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の「高野参詣道」の構成資産の一部として「京大坂道不動坂」が追加登録された[4]。 概要京大坂道は高野街道、高野街道京大坂道ともいわれ、京都、大阪、堺方面からの高野参詣道で、高野山町石道など他の参詣道に比べ最も安全で短時間で高野山に辿り着けるとされ、近世以降、主要参詣道として利用されるようになった[5][1]。 高野街道高野街道として、以下の主な4街道があり、これらの名称が定着したのは明治以降である[6]。京都方面から高野参詣する場合、移動手段として徒歩のみ、あるいは船も使用するかどうか、もしくは参詣途中に立ち寄る社寺によっても、街道を使い分けた[6]。 東高野街道東高野街道は、京都府八幡市を起点とし、大阪・四條畷、八尾、富田林を通り、河内長野で西高野街道と合流し、高野街道となる[7][1]。 中高野街道中高野街道は、大阪市平野を起点とし、松原、美原、を経て狭山で西高野街道に[10]、あるいは河内長野市北部で西高野街道と合流する[8]。かつて上高野街道と呼ばれていた[10]。 下高野街道下高野街道は、大阪市四天王寺を起点とし、大阪・狭山で西高野街道に合流する[10][8]。 西高野街道西高野街道は、大阪府堺市を起点とし、河内長野で東高野街道と合流し、高野街道となる[11][8]。
京大坂道上述の高野街道が、大阪・河内長野までに合流し、高野街道として集約される[1]。それぞれの高野街道が1つに集約する河内長野では、女人高野といわれる金剛寺、空海作の如意輪観音像が奉安される観心寺があり、高野山信仰・参詣の拠点となったことがうかがえる[9]。高野街道は、河内長野より紀見峠を超え、和歌山・橋本市で紀の川を渡り清水へ、学文路から高野町極楽橋を通り、高野山内への入り口となる不動坂口に至る。この和歌山・橋本で紀の川を渡り清水へ、学文路から高野町不動坂口へ至る道が京大坂道と呼ばれている[15]。京大坂道は、かつて最も多くの参詣者で賑わった高野参詣道といわれる[1]。「紀伊国名所図会」の「登山七路」の項で、「京大坂より紀伊見峠を超えてくるものと、大和路より待乳峠を越えて来るものと、清水村二軒茶屋にて合ひ、学文路を経てこの道より登詣するもの、十に八九なり」と表現されている事から、江戸時代後期における京大坂道の利用は、高野参詣者の8 - 9割に及ぶことがわかる[13]。参詣道は、紀ノ川を渡り、学文路から山中へ向かうが、道中は、学文路、河根、神谷といった宿場町があり、江戸時代には参詣者の増加とともに大いに賑わった[5]。 京大阪道不動坂特に、京大坂道の極楽橋から不動坂口に至る区間は「不動坂」と呼ばれ、京大坂道における一区画を指し[2]、約 2.7km と比較的短い距離だが、高低差 310mの急坂で京大坂道最後の難所であった[16]。特に京大坂道不動坂といった場合は、この不動坂部分のみを指す[2]。京大坂道不動坂は、1915年(大正15年)の高野山開創1100年を期に大改修が行われ、旧来の不動坂の急峻な坂道を迂回する新道が作られた。新不動坂は、幅員、ルート共に大幅に変更され歩きやすくなり[17][15]、その為、旧来から使用されてきた旧不動坂は使用されなくなり、現在では不動坂といえば新道の不動坂を意味するようになった[18]。新不動坂が主要参詣道となって以来、旧不動坂は使用されず、また開発されることも無く放置されたため、「紀伊国名所図会」で描かれた、かつての不動坂が、ほぼそのままの状態で保存されることとなった[18]。2011年(平成23年)から、永らく使用されず山に埋もれていた旧不動坂が、古道整備事業により調査が行われ、朽ち果てた桟橋の掛け替や往時の不動坂中の難所とされた「いろは坂」や、罪人を突き落としたと伝わる「万丈転かし」の現場も、見事に復元整備されている[18]。京大坂道不動坂の終着地点である不動坂口に、唯一現存する女人堂がある[19]。 紀の川流域から高野山参詣道として、東は橋本市清水からの黒河道が並走する。西は、西国三十三所観音巡礼の四番札所槇尾山施福寺に通じる槇尾道が[20]、高野口町名倉から並走するが、途中で宿場町として賑わった神谷で京大坂道と合流する[15]。さらに東には、町石道がある。 女人堂京大坂道の到着地点の不動坂口に、唯一、現存する女人堂があり、正式には一心院谷女人堂と呼ばれていた[21]。かつて高野山が女人禁制の時代に、女性は高野山内へは入れず、高野七口とよばれる高野山への入り口7つそれぞれに、女性の為の籠もり堂(参籠所)として女人堂が置かれ[19][22]、宿泊に利用したり、堂内の大日如来に祈願したり[23]、弘法大師御廟や壇上伽藍を遥拝したとされる[24]。高野山を囲むようにある峰々が聖地と外界(俗世)との結界の境界であり[21]、その結界線そって女人堂を巡るための女人道があり、高野七口にある女人堂を次々と巡りながら、道中でも祈りを捧げた[24]。特に不動坂口の女人堂は女性参詣者が多かったとされ[23]、「紀伊国名所図会」に、「七口各堂ありといへども、此堂最大なり」と記され[25]、高野七口に建つ女人堂の中でも不動坂口に建つ女人堂が最大だったことが分かる[21]。女人堂にかかわる次のような伝説が残る。「室町時代、越後国の出雲崎の本陣宿に小杉姫という美しい娘がいた。娘は佐渡奉行の息子との縁談が決まるが継母の恨みにより両手を切られる。さらに婚家からも追い出され、娘は仏の慈悲にすがり信州善光寺に参詣するが、夢枕に弘法大使が現れ、高野山麓の宿屋の善兵衛を訪ねよと告げた。高野山への旅の途中で山賊に子供を殺されるが、命からがら高野山麓にたどり着き、善兵衛に女人参詣者を接待する事を勧められ、女性の為の籠もり堂を建てた。」と伝わり、その籠もり堂が女人堂の始まりとされる[1][26]。女人堂のそばに小杉明神社があり、小杉姫を祀ると伝わる[27]。近世には、女性参詣者が女人禁制の掟を破り高野山内へ入り、鐘楼や経蔵などに隠れる者が絶えなかったため、取締を求める文書が残る[27]。各女人堂に隣接し小屋が置かれ、不審者侵入や女性の山内侵入監視を行ったり、宿泊女性の接待をする半僧半奴の山奴といわれる者が駐在し、食事は宿坊が輪番で用意し「通い膳」として運ばれた[28][23]。 女人禁制かつて高野山霊場の聖域と俗世界とを区切る結界線が張られ、その内側に女人の立ち入りを制限するなどの禁制が敷かれた[29]。女人禁制は絶対とされ、かつて空海の母でさえも結界の中に立ち入ることが許されなかったと伝わる[30]。 1872年(明治5年)明治政府から太政官布告第98号「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス」が発布され[31]、近代化政策を進める政府によって女人禁制が解かれた。しかし、仏教界から強い反発があり、高野山でも公式に完全に女人禁制が解かれたのは1906年(明治39年)であった[25]。1906年(明治39年)に、高野山真言宗総本山金剛峯寺が開創1100年記念大法会にむけて、高野山の結界残部を残らず解除したことで、禁制が解かれ実質的に女人禁制も完全解除された[32][33]。このことにより、公式に女人の高野山内への入・居住が認められることとなった[32][33]。
史跡2015年10月7日に、高野参詣道の京大坂道不動坂で、旧態を留めている部分が「京大坂道不動坂」として、国の史跡「高野参詣道」の構成資産の一部として追加指定された[3]。
2019年(令和元年)10月、文化庁の「歴史の道百選」の「高野参詣道」の構成資産として「京大坂道」が追加選定された[34]。
世界遺産2016年10月24日に、高野参詣道の京大坂道不動坂で、旧態を留めている部分が「京大坂道不動坂」として、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の「高野参詣道」の構成資産の一部として追加登録された[4]。
沿道の主な名所
正式には、如意珠山能満院仁徳寺とよばれる真言宗寺院である[35]。
江戸時代に参詣者の安全登山を祈って作られた。今も子安地蔵として信仰されている[17]。
道の狭い街道を剃刀で広げたと伝わる[38]。
盛夏でも水がしたたり、弘法大師が喉を潤し、また硯の材として使用したと伝わる[38]。
祭神 - 丹生都比売大神、高野御子大神(狩場明神)
本尊は大日如来で、高野山真言宗の寺院。河根丹生神社と境内を隣接し、神仏習合時代に河根丹生神社の神宮寺であった。
1634年(寛永11年)に幕府により架けられる。7年ごとに営繕費千石が支給された。あるいは、年貢米千石を運んだことにより「千石橋」と呼ばれている[41]。
かつて河根宿の本陣で、身分の高い参詣者の休憩、宿泊に利用された。江戸時代、高野山は参勤交代を行っており[42]、高野山の重役方も宿として使用した[43]。赤穂浪士・村上兄弟が宿泊し、父の仇討の相談を行った宿である[44]。
仇討ちで討たれた者達の墓が並ぶ。
かつて本陣・脇本陣があり、昭和初期までに10件程度の宿があり、街道情緒が残る[48]。
切符は「学問(文)の路に入るお守り」として、受験生に人気を博している[49]。
南海高野線の終点駅である。
旧不動坂にあり、かつての罪人処刑場とされる。
かつて万丈転がし付近にあったが、1920年(大正9年)に新不動坂へ移築された[51]。
京大坂道からの高野山内への入口となる不動坂口に、唯一現存する女人堂[19]。 高野参詣道 京大坂道を歩く近年、ウォーキング・ハイキング案内書などで京大坂道のルートが詳細に紹介され、橋本市学文路から京大坂道を、もしくは高野町極楽橋から京大坂道不動坂をウォーキングコースとして手軽に歩けるようになった[17]。
※途中、携帯電話の電波が入らない場所もあるので注意が必要である。 関連項目脚注
参考文献
外部リンク
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