金剛寺(こんごうじ)は、大阪府河内長野市天野町にある真言宗御室派の大本山の寺院。山号は天野山(あまのさん)。本尊は大日如来。五仏堂は新西国三十三箇所第7番札所で本尊は千手観音である。
境内の多宝塔は平安時代後期の建立で、日本最古の多宝塔であると同時に大阪府最古の木造建築物である[1]。
高野山が女人禁制だったのに対して女性も参詣ができたため、「女人高野」とも呼ばれる。奥河内の観光地の一つ。大阪みどりの百選に選定されている[2]。また日本遺産『中世に出逢えるまち 〜千年にわたり護られてきた中世文化遺産の宝庫〜』の構成文化財のひとつでもある。
南北朝時代(1336年 - 1392年)には、南朝の最重要拠点の一つとして、枢要の地位にあった。延元元年/建武3年(1336年)10月1日には、後醍醐天皇によって勅願寺に指定された。さらに、正平9年/文和3年(1354年)10月28日から正平14年/延文4年(1359年)12月まで、南朝第2代後村上天皇の行宮(仮の皇居)が置かれている。また、正平12年/延文2年(1357年)に後醍醐・後村上両帝の腹心で南朝最大の高僧・画僧の文観房弘真が入滅した地でもある。
寺伝ではインドのアショーカ王(阿育王)が投げた8万4千の鉄塔のうちの一つがこの地に落ちたとする。奈良時代の天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願によって行基が開いたとされる。弘法大師(空海)も修行をしたとされている。
平安時代末期に高野山の僧・阿観(あかん)が住すると、後白河上皇と妹の八条院の篤い帰依を受けた他、治承4年(1180年)には地元の武士である源貞弘から土地を寄進されるなどし、金堂・御影堂などを建立し、再興した。八条院の帰依を受けたほか、八条院の侍女大弐局(浄覚尼)と妹の六条局(覚阿尼)が阿観の弟子となり、二代続けて院主となるなどし、女性の参詣ができたため「女人高野」と呼ばれて有名となった。
鎌倉時代末期には100近い塔頭があり、後醍醐天皇と近しい関係を築き、南北朝時代には観心寺と共に南朝方の一大拠点となった。延元元年/建武3年(1336年)10月1日には後醍醐天皇によって勅願寺とされた[3]。もともと後醍醐天皇は河内国の真言宗諸寺院とは親しく、また(既に故人となっていたが)武将楠木正成との関係もあると考えられている[3]。この時の綸旨には「皇統の長久を祈るべし」とあるが、数百通ある後醍醐天皇の綸旨の中でこのような文言が書かれた綸旨は他にはない。
正平9年/文和3年(1354年)3日22日、南朝は観応の擾乱末期に捕縛していた北朝の光厳上皇・光明上皇・崇光上皇・廃太子直仁親王を、大和国賀名生から当寺に移動させると観蔵院をその行宮(仮の住まい)とした[4]。10月28日には後村上天皇自身も到来し、塔頭・摩尼院を行宮として、南朝の本拠地に定めた[4]。また、食堂を政庁天野殿(あまのでん)とした。
このとき、後醍醐・後村上両帝の腹心で護持僧(祈祷によって天皇を守護する僧)を務めた文観房弘真もまた、金剛寺に居住した[4]。このときの金剛寺の学頭(寺務を統括する僧職)は、膨大な仏教書を書写した学僧として名高い禅恵で、文観に弟子入りし「門弟随一」を称している[5]。
正平10年/文和4年(1355年)には光明上皇を京都に返し、正平12年/延文2年(1357年)2月には光厳上皇・崇光上皇・直仁親王も京都に返された。
正平12年/延文2年10月9日(1357年11月21日)、文観は当寺の大門往生院において入滅した[6]。
正平14年/延文4年(1359年)12月には、後村上天皇の行宮は観心寺に移った。
翌正平15年/延文5年(1360年)、北朝の畠山国清の攻撃を受けて40余りの塔頭が焼失する。さらに、文中2年/応安6年(1373年)には、和平に反対する長慶天皇が行在所としていた当寺に、和平派ゆえに北朝に寝返った楠木正儀があえて攻撃を加え、長慶天皇を当寺から除かせて、しばらくの間占領する事件も起きた。
その後は戦火に遭うこともなく、室町時代の永享4年(1432年)頃からは銘酒「天野酒」を販売して収入を得たりし、永正11年(1514年)には依然として塔頭が70から90もあって威勢を誇った。
慶長10年(1605年)から豊臣秀頼によって伽藍が整備され、金堂、多宝塔、食堂、楼門が修理された。また、五仏堂、薬師堂が再建され、護摩堂、法具蔵、摩尼院書院、鎮守社の水分明神社、丹生高野明神社、鎮守社拝殿、鎮守社鐘楼が建立されている。
元禄13年(1700年)には、江戸幕府将軍徳川綱吉の命で岸和田藩主の岡部長泰を奉行として伽藍の修理が再び行われた他、求聞持堂、開山堂が建立された。江戸時代末期には307石の寺領があった。
しかし、明治時代となって廃仏毀釈のためもあり、塔頭は減少し、現在では摩尼院、観蔵院、吉祥院を残すのみである。とはいえ、主要伽藍などは戦火に掛からなかったため、貴重な文化財が数多く残されている。
典拠:2000年までに指定の国宝・重要文化財については『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。2001年以降の新規指定、追加指定等については個別に注を付した。
以下の建造物12件が2017年6月28日付けで国の登録有形文化財に登録された[19][注釈 4]。