水間寺(みずまでら)は、大阪府貝塚市水間にある天台宗の別格本山の寺院。山号は龍谷山。本尊は聖観世音菩薩。水間観音の通称で知られる。新西国三十三箇所第4番札所。周辺とともに大阪みどりの百選に選定されている[1]。
歴史
寺伝によれば、天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により行基が開創したものという。行基は、病床の聖武天皇の夢に現れた観音菩薩を求め、白鳥(しらとり)に南西の方向に導かれたが、その白鳥は和泉国で羽根だけを残し何処へともなく消え去り(この地は現・貝塚市鳥羽だという)、彷徨いながら北東の方向へ進んで行くと、16人の童子(観音菩薩の化身)に遭遇し(この地は現・貝塚市清児といい、稚児塚の伝承地が現存する)、その童子に案内され、行基が2つの川が合流する「水間」の地に着き、誘われて滝に向かうと竜神が現れ、聖観音像を授けられたと伝わっている。その滝は、現在の本堂の裏を流れる秬谷川にあったらしく、現在は岸辺に設置されたフェンスに「聖観音菩薩出現の滝」と墨でかかれたボードが設置されている。
中世より武家による手厚い保護を受けていたが、羽柴秀吉による紀州征伐の際に根来寺に与したため、天正13年(1585年)に堀秀政の軍勢に攻められて焼失した。一時衰退したものの、岸和田藩主岡部氏 の帰依を受け、元禄年間(1688年 - 1704年)には堂宇も再建された。その後、天明4年(1784年)の火災で再び焼失。しかし、文化8年(1811年)に岸和田藩主岡部長慎により本堂が再建され、文政10年(1827年)には他の堂宇も再建された。
貞享5年(1688年)に刊行された井原西鶴の『日本永代蔵』の第1話「初午は乗て来る仕合」に「泉州水間寺利生の銭」と記されたことで全国的に知られるようになった。1925年(大正14年)には参拝客を運ぶための水間鉄道水間線が開通している。
最近、行基菩薩を聖観音像が待つ「降臨の滝」まで導いた十六童子に因み、水間鉄道清児駅を起点に水間観音駅から「水間寺境内」までの間の「厄除け街道」に、障がい者支援施設「土の子陶房」で制作された焼物の「厄除け十六童子・脇導師」一対ずつが16箇所に設置され、参詣者の新しい楽しみとなっている。
境内
文化財
貝塚市指定有形文化財
貝塚市指定無形民俗文化財
- 水間千本搗餅つき(水間千本搗餅つき若中保存会)[2]
前後の札所
- 新西国三十三箇所
- 3 鶴満寺 - 4 水間寺 - 5 道成寺
- 和泉西国三十三箇所
- 25 孝恩寺 - 26 水間寺 - 27 吉祥園寺
- 南海沿線七福神(弁財天)
- 神仏霊場巡拝の道
- 52 施福寺 - 53 水間寺 - 54 七宝瀧寺
交通
脚注
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
水間寺に関連するメディアがあります。
外部リンク