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「八十八ヶ所巡礼」と「八十八箇所巡礼」は四国を巡る遍路について説明しているこちらの項目へ転送されています。
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四国八十八箇所(しこくはちじゅうはっかしょ、四国八十八ヶ所[注釈 1]とも表記される)は、四国にある空海(弘法大師)ゆかりの88か所の仏教寺院の総称で、四国霊場の最も代表的な札所である。他に「八十八箇所」「お四国さん」「本四国」などの呼称がある。四国八十八箇所を巡礼(巡拝)することを四国遍路、遍路といい、また四国八十八ヶ所霊場会では「四国巡礼」といい、他に「四国巡拝」などともいう。俳句では春の季語となり、地元の人々は巡礼者を「お遍路さん」と呼ぶ。また、札所に参詣することを「打つ」、巡礼に親切にすることを「お接待」と表現する(「#四国遍路に因む文化」の項で後述)。
阿波国(現・徳島県)の霊場は「発心の道場」で23か寺、土佐国(現・高知県)の霊場は「修行の道場」で16か寺、伊予国(現・愛媛県)の霊場は「菩提の道場」で26か寺、讃岐国(現・香川県)の霊場は「涅槃の道場」で23か寺が、88の霊場寺院の内訳である。
2015年(平成27年)4月24日には、日本遺産の最初の18件の一つとして「四国遍路ー回遊型巡礼路と独自の巡礼文化」が文化庁により認定された。2019年10月29日には、同庁により「歴史の道百選」に「四国遍路」が選ばれた[注釈 2]。
概要
四国八十八箇所は単に88の寺院の総称ということだけでなく、室町時代以降に定められたとみられる88の寺院と急峻な山や深き谷を巡り、その間にある仏堂を残らず巡る488里の修行のことであり、江戸時代頃から一般庶民も巡礼するようになってからは現生利益を求めて88の寺院を巡る300有余里の札所巡拝のことである[1]。また、江戸時代頃から西国三十三所観音霊場、熊野詣、善光寺参りなど庶民の間に巡礼が流行するようになり、そのうちの一つが四国八十八箇所である。これを模して全国各地に大小様々な八十八箇所の巡礼地が作られた。これらは「移し」または「写し」とも呼ばれ、「新四国」と掲げる霊場もあるように、四国八十八箇所隆盛の証左ともいわれている。その具体例は下記の地四国・島四国・新四国の項に記述する。
霊場寺院を結ぶ歩き道を遍路道といい、八十八箇所を通し打ち(後述)で巡礼した場合の全長は1,100[2] - 1,400キロメートルほどである。距離に幅があるのは遍路道は一択ではなく、選択する道により距離が変動するためである。自動車を利用すると、打ち戻りと呼ばれる来た道をそのまま戻るルートや遠回りのルートが多いので、徒歩より距離が増える傾向にある。一般的に、全ての札所を徒歩で巡拝する歩き遍路[注釈 3]の場合は40日程度、自動車や団体バスによる車遍路では8日から13日程度で一巡できる。
巡拝方法
遍路は順番通り打たなければならないわけではなく、各人の居住地や都合により、どの寺から始めてもよく、移動手段や日程行程なども様々である。一度の旅で八十八箇所の全て廻ることを「通し打ち」、何回かに分けて巡ることを「区切り打ち」といい、区切り打ちのうち阿波、土佐、伊予、讃岐の4つに分けて巡礼することを特に「一国参り」という。また、順番どおり廻るのを「順打ち」、逆に廻るのを「逆打ち」という。近年は順序にこだわらず打つことを「乱れ打ち」という。一般的には順打ちによる道案内がなされており、逆打ちは道に迷うといった苦労も多いため多くの御利益があるともいわれていたが[3]、現在はどちらからでも見やすいように標識が設置され、さらにカーナビゲーションの普及によりどこからでも回れるようになっている。俗説によれば、巡錫中の弘法大師に無礼を働いた伊予の豪商・衛門三郎が大師に許しを請うため遍路に出たが、20回以上順打ちで巡礼しても追い付けず、閏年の申年に逆回りを試して出会えたという伝承がある[3][注釈 5]。このため、閏年の逆打ちは御利益が3倍あるとの考えから、閏年には逆打ちが平年に比べ多くなるといわれ、逆打ちのツアーを組んでいる旅行会社もある[3][注釈 6]。
なお、故人は命日より七日ごとに閻魔大王から裁きを受け四十九日に結論が出ると云われるが、極楽へ行けなかったとき、もう一度最後に裁かれる百箇日のため、残された者が四十九日と百箇日の間に追善供養の遍路をとの考え方がある。[要出典]
- 納経時間は午前8時〜午後5時
- なお、次の札所は現在、7番十楽寺は午前7時30分〜午後5時、12番焼山寺は午前8時〜午後4時30分、67番大興寺は午前7時〜午後5時(今のところ)、80番国分寺は午後4時30分閉門、81番白峯寺は午前8時30分〜午後5時
参拝方法
遍路(巡拝者)は札所に到着すると、およそ決められた手順(宗派や指導者によって多少異なる)に従って参拝する。それは、山門前で合掌礼拝一礼し、手水舎でお清めをしたのち[注釈 7]、表示などで可能であれば鐘楼堂にて梵鐘を一回突く(参拝後に突くことを「出鐘」と呼び、「出金」に通じること、さらに出鐘自体が死者を送る際に突く鐘と言われるため、参拝後には突かない)[4]。そして、本堂において燈明・線香・賽銭奉納をして納札(おさめふだ、後述)を納める、また、写経を納めることもある。続いて般若心経や本尊真言、大師宝号などの読経を行い、祈願する。次は大師堂に向い燈明・線香・賽銭奉納をして納札を納め、般若心経や大師宝号などの読経を行い、祈願する。なお、最近は唱える者は希になったが本堂では寺の御詠歌を、大師堂では弘法大師の御詠歌を唱える。
その後、境内にある納経所にて、持参した納経帳や掛軸や白衣に、札番印、宝印、寺号印の計3種の朱印と、寺の名前や本尊の名前、本尊を表す梵字の種字などを墨書してもらい、各寺の本尊が描かれた御影(おみえ)を頂き、納経料を支払う。この一連の所作を納経という。なお、納経帳への納経は一人につき1冊で、同時に掛け軸も1幅、白衣も1着ずつであり、一日に一度限りである。当霊場を1度だけでなく何度も訪れる場合、同じ納経帳に何度も朱印してもらうのを「重ね」といい、毎回、帳面を新しくしてもどちらでもよいが、公認先達に申請する予定の者は重ねが好ましい[要出典]。白地に黒印字の御影は漏れなく頂けるが、カラー御影は、別途有料で販売している。また、弘法大師の50年ごとの生誕・入定や開創記念などで散華やカードの配付およびスタンプの押印が期間限定で行われる(詳細は下記の四国八十八箇所霊場会の項で)。最後は山門前にて合掌礼拝一礼し、次の札所へのお参りとなる。
八十八箇所を全て廻りきると「結願(けちがん)」となり、どの札所から初めてもよいので88番目の札所が結願寺となる。その証明書を任意(いずれも有料)で作ってくれる札所があり、88番の大窪寺と43番の明石寺では「結願」の証、75番の善通寺では「満願」の証、1番の霊山寺では「四国八十八ヶ所霊場満願之証」である。また、納経帳に、讃岐国分寺では「願行成満」、白峯寺では「大願成就」と記帳してもらえる。その後、お礼参りとして結願寺から高野山の奥の院御廟に詣でて、全ての札所を参ることができたことを弘法大師に報告・感謝をして満願成就となる。これは特に定められたものでないものの、納経帳や掛軸に高野山奥の院の項があるので参拝して納経するのが一般的である。[要出典]さらに、東寺(教王護国寺)に足を伸ばせば「成満証」を希望により(有料)作ってもらえる。
歴史
修行の地・四国
古代、海辺の道を廻ることを辺地(へんち・へち)と呼んだ[5]。平安時代頃には修験者の修行の道であり、讃岐国に生まれた若き日の空海もその一人であったといわれている。空海の入定後、修行僧らが大師の足跡を辿って遍歴の旅を始めた。これが四国遍路の原型とされる。時代が経つにつれ、空海ゆかりの地に加え、修験道の修行地や足摺岬のような補陀洛渡海の出発点となった地などが加わり[6]、四国全体を修行の場とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行した。
四国遍路の成立
信仰上は、空海が42歳の厄年の弘仁6年(815年)に四国霊場を開創したとされているが、史実ではない。ほかに、空海死後に弟子の真済(800-860年)が遺跡を巡拝したとあるが、伝承の域である。[要出典]その後、平安時代末期に『今昔物語集』[注釈 8]や『梁塵秘抄』[注釈 9]に四国辺地修行したことを記載する[7]。聖宝(832-909年)や重源(1121-1206年)も四国で辺地修行をし、西行は1167年に崇徳上皇を祀った白峯御陵(白峯寺)参拝をしているが、成立している形跡はない。[要出典]
鎌倉時代に入ると、道範(1178-1252年)が『南海流浪記』に、空海遺跡を参拝したことが書かれており[8]、一遍(1239-1289年)も遺跡を廻ったことを記載する。これらは断片的で、全体としての成立がなされていないことを示している。室町時代になると僧侶の修行としての巡拝だったのが、庶民にも広がったと云われている。[9]
なお、1350年前後に善通寺を再興した宥範が、また、道隆寺や天皇寺の住職を務め四国の多くの社寺を復興した増吽(1366-1452年)が四国遍路の成立や88箇所の選定に関わっている可能性がある。[要出典]誰だったにしろ、弘法大師が88箇所を定めたと空海に仮託し、自らの名を残していない。[要出典]
「辺路」の初出は、弘安年間(1248-1288年)の醍醐寺文書で「四国邊路、三十三所諸国巡礼」と記されている[10][11]。また、80番国分寺には永正10年(1513年)年に記された「四国中辺路,同行只二人納申候」という墨書が残されている[12]。
戦国時代の長宗我部元親による四国平定の戦(1578年頃より)から豊臣秀吉軍による四国攻め(1585年)までの一連の戦で、阿波の札所16箇寺、伊予の札所8箇寺、讃岐の札所14箇寺[注釈 10]が壊滅的な影響を受けたことが伝えられ、それから、数十年後に訪れた澄禅が承応2年(1653年)に巡拝した記録『四國辺路日記』[注釈 11]に、徳島の数箇所において、復興が遅れ「礎のみ残り」「小さな草堂」と表現される寺院でも札所であることから、戦国時代以前から札所として選ばれていたと思われる。[要出典]
江戸時代初期になると、賢明の寛永15年(1638年)に巡拝した記録『空性法親王四国霊場御巡行記』には、現在とほぼ同じ札所がほぼ同じ順番[注釈 12]で記されている。澄禅の日記(1653年巡拝)には、井戸寺からスタートしたものの[注釈 13]文中に「大師は阿波の北分十里十ケ所、霊山寺を最初にして阿波土佐伊予讃岐と順に…」とあるように、番号こそ記載はないが、霊山寺が最初の札所であるのが慣例であったと見なされる。
そして、澄禅が巡拝途中に阿波海部で『辺路札所ノ日記』[注釈 14]を購入しているが、それは、現存している元禄9年(1696年)に重版された『奉納四國中邊路之日記』[注釈 15]の先行版のことであるとみられ、札所番号こそ記載がないが、次の札所までの距離・本尊・御詠歌が88の項目の表として記載、澄禅が巡拝する以前から、既に八十八箇所が確定していたことがわかる。
その後、真念によって1687年出版された『四國邊路道指南(しこくへんろみちしるべ)』[注釈 16]には札所番号が記され、札所間の内容や本尊・寺の状況が端的に記されている。真念の情報により書かれた寂本の『四国遍礼霊場記』(1689年)は詳しく由緒が書かれ、境内状況が描かれた絵が載せられ、読み物としても興味深い。これらの本の流布により修行者が行っていた遍路が一般人にも開かれた。それまでは四国の辺々を歩いて回りながら修業をすることが意識されている巡礼から、ある決まった寺を参拝して回るということが四国遍路であるというふうに四国遍路のあり方が変わり、それが後の時代に引き継がれていった[14]。また、手の形の矢印で順路を示した遍路道の石造の道しるべも篤志家によってこの時期に設置され始めたといわれる。
1854年に発生した大震災(安政南海地震)とみられる要因により土佐17箇所[注釈 17]、翌年にはさらに宇和島藩の南予4箇所に遍路入国禁止となり、伊予国の番外寺院で代理納経が行われる事態が起こっている。また、幕末の動乱で入国の制限が阿波で起きるなど[注釈 18]あったほか、明治初期には廃仏毀釈の影響を受けた。世情が安定してからは遍路入国禁止は解除[注釈 19]になり、明治5年以降は高知県の札所も納経が行われている。[要出典]
四国遍路が確立した以降
修行僧や信仰目的の巡礼者以外にも、疾病、犯罪などの理由により、故郷を追われた、もしくは捨てざるを得なかった者たちが施しを受けながら四国遍路を終生行う「職業遍路[16]」が存在した。[要出典]もっともこれらの者たちも、信仰によって病気が治るのではないかという期待や、信仰による贖罪であったので、信仰が目的であったともいえる。また、信仰によって病気や身体の機能不全が治るのではないかと一縷の望みをかけ、現代でいう視聴覚障害者や身体障害者が巡礼することも始まった。その後、地区によっては一種の通過儀礼として村内の若衆が遍路に出ることもあったとされる[17]。[要出典]
四国遍路は信仰者の義務ではなく、修行者や僧侶、後には庶民や窮民が祖霊供養や宗教心を深めるために自ら決意して実行してきたものである。他の巡礼地と比べて現世利益よりも病回復、懺悔や死などのイメージが強い。途中で行き倒れて遍路道に葬られる巡礼者もあった[18]。[要出典]近代でも四国霊場が他にない神秘性とほの暗さを湛えていたのは、悩みを抱えた巡礼者が死装束に身を包み、病や疎外感を抱えて祈りながら歩く遍路道だったからである。一方、現代ではその暗さは無くなり、供養や当病平癒や心願成就に加え、健康維持や余暇の充実のための遍路に変化している。[要出典]
明治の神仏分離・廃仏毀釈の影響
明治初頭の神仏分離令及びそれをきっかけに起こった廃仏毀釈運動により、それまで札所だった神社から別当寺などへ札所を移したり、神仏習合の寺が神社と分離独立したり、寺そのものが廃寺になったりするなど四国八十八箇所霊場の一部が大きく変わっていった。特に影響を受けたのは高知県と愛媛県の今治・西条地区[要出典]で、のちに同じ場所に再興されたり別の寺が札所になったりするなど徐々に復興していった。また、明治政府による上知令による寺領の没収や離檀により多くの札所が経済的困窮に追い込まれた。例を挙げると、52番太山寺では9町6反余の広大な寺領が1町2反余に、50番繁多寺では4町8反余が4反余とされた。さらに、無檀家の寺は廃寺にすべしとの命令が出て無住寺になる札所も出た。そして、神仏分離から100年以上経った平成6年(1994年)に第三十番札所が確定したときに、現在の霊場の形に落ち着いた。[19][要出典]
影響を受けた札所
- 13番札所: 一宮神社が札所だったが、本地仏・十一面観音を別当の大日寺に移して本尊とし、当寺が札所となる[20]。
- 27番札所: 神峯観音堂が札所だったが神社となり、本尊・十一面観音と札所は金剛頂寺に預けられるも明治20年(1887年)に本尊と札所を帰還させ元の地から少し下った憎坊跡に再興。1912年(大正元年)、神峯寺として寺格を持つ。[21]
- 28番札所: 大日寺は廃寺になるも、明治17年(1884年)に再興された。[22]
- 30番札所: 土佐一ノ宮高賀茂大明神が札所で納経は別当寺の神宮寺で行っていたが、塔頭の観音院善楽寺とともに廃寺となり、いち早く再興した安楽寺に札所と本地仏・阿弥陀如来が預けられていた土佐国分寺から移った。1929年(昭和4年)に善楽寺が再興されて札所を名乗るようになり、30番札所が2か所存在し混乱することになるが、1994年(平成6年)元日から30番札所は善楽寺とし、安楽寺は奥ノ院と定められた。[23][19]
- 33番札所: 雪蹊寺は廃寺になり、31番竹林寺に札所を預けていたが、再興して札所も戻る。[19][24]
- 34番札所: 種間寺は廃寺となり[25]、本尊は近くの池田観音堂に移してあったが、隣接した平地の現在地に再興される[26][27][28]。
- 37番札所: 仁井田五社が札所だったが、本地仏5体と札所は別当寺の岩本寺に移る。[19][29]
- 41番札所: 龍光寺本堂の稲荷明神像と観音堂の本地仏・十一面観音は下段に新築した本堂に移され上段は神社に下段は寺院に分けられた。[30]
- 55番札所: 別宮大山祇神社が札所であったが、本地・大通智勝如来像は別当寺の南光坊薬師堂に移り札所も当寺に移る[31]。
- 57番札所: 石清水八幡宮が札所で栄福寺は別当寺であったが、神社と寺は分離独立し、寺は山頂から麓に移転して札所を引き継ぐ。[19]
- 60番札所: 横峰寺は廃寺になり札所は麓の清楽寺に移るが、1880年(明治13年)に大峰寺の名前で再興。1885年(明治18年)に札所は戻り、1909年(明治42年)に横峰寺の寺名に戻る。[19]
- 62番札所: 一ノ宮が札所で別当寺の宝寿寺は廃寺になるも1877年(明治10年)に再興され札所となり、1921年(大正10年)に現在地に移転した。[19]
- 64番札所:前神寺は石鈇山蔵王権現の祭祀の破棄と石鉄神社への衣替えの命令を受けるがこれを拒否し抵抗するも、その最中、火災に遭い現在地にあった塔頭の医王院へ移転。廃寺通告を受けるも、その地で1879年(明治12年)より再興していった。[19]
- 68番札所: 琴弾八幡宮が札所だったが、本地阿弥陀如来図を別当寺の観音寺西金堂へ移し、観音寺の院号であった神恵院を寺名として観音寺が68番の札所も引き継いだ(元々68番の納経も観音寺がしていた)。[32]
- 79番札所: 摩尼珠院妙成就寺は廃寺になり札所は塔頭の高照院が引継ぎ、1887年(明治20年)に天皇寺高照院として摩尼珠院のあった現在地に移転する[33]。
- 81番札所:白峯寺は当寺管理の白峯御陵は宮内省の管理となり、上知令により塔頭は当寺以外は廃寺となり当寺は無住持となり当寺も廃寺の危機を迎えるが乗り越えた。しかし次は頓証寺部分が金比羅宮の神社として多くの宝物とともに獲られることになるも苦難のすえ、1898年(明治31年)に寺地とごく一部の宝物を取り返して現在に至る[34]。
- 札所の数とせずといへども皆往参する霊境:観世音寺北緯33度03分19.4秒 東経132度39分32.0秒は廃寺となり、月山霊場は 月山神社となり、本式の遍路なれば大三島へ渡り大山積神社へ往参していたが、明治以降はいずれも遍路としては行かなくなった。
近代における遍路の「観光化」
昭和30年代頃までは「辺土」と呼ばれ、交通事情も悪く、決して今日のような手軽なものではなかった。今日でこそその心理的抵抗は希薄になっているが、どこで倒れてもお大師の下へ行けるようにと死に装束であり、その捉え方も明るいイメージではなかった。しかしながら、次第に観光化の道を歩み始める。
近代以降、四国遍路は様々な場面で取り上げられることとなった。"1908年には現在の『毎日新聞』の前身である『大阪毎日新聞』で、四国遍路の巡礼競争が企画された。全国紙での企画ではこれが最初のものであるらしい。1930年代には乗り物を用いて、旅館などに宿泊する巡礼者が登場した。彼らは「モダン遍路」と呼ばれた。四国遍路は観光としてみなされたのだった。"[35]
観光として四国遍路を捉える人々に対して、伝統的な四国遍路を主張する「遍路同行会」が1929年に東京で誕生した[注釈 20]。ただし実質的な活動はしておらず、本格的な組織は1942年に善通寺を中心とした「四国八十八ヶ所霊場会」である。この霊場会の組織に先立って、高野山電気鉄道を子会社に持つ大阪の南海鉄道によって「四国八十八ヶ所出開帳」というイベントが1937年5月5日から6月16日まで大阪の助松遠州園・金剛園の2か所で行われた。それまで全寺院が協力して何かを成し遂げることなどなかったが、このとき初めて全寺院が団結して出開帳を成功させた。この経験が、1942年の霊場会の成立と関わっているのではないかとされている。なお、その時に造られた出開帳用本尊は各寺に返され、「前立ち仏」として鎮座している。[要出典]
昭和三十年代まで、納経帳は各自で作成していたが、これでは不便ということで、市販の納経帳が作られ販売されることとなった。[要出典]
現代
現代においては、従来の信仰に基づくものや、現世・来世利益を期待する巡礼者も引き続き大勢いるが、1990年代後半からは信仰的な発心よりも、いわゆる自分探し、癒やしとしての巡礼者が増えたといわれている[36]。一時期減ったといわれる、歩き遍路も同じ頃から増えた。徳島大学、今治明徳短期大学など、四国の大学・短期大学の中には歩き遍路を自分を見つめ直す機会ととらえ、教育課程に組み込んでいる学校もある。
遍路をするに当たり予約や届け出などをする必要がなく、いつどの札所から始めても終わっても自由である。統計が取れないため人数は定かではないが、巡礼者数は年間10万[37] - 30万人(うち歩き遍路が2500[39] - 5000人)ともいわれる。
外国人も増加傾向にあるとみられる。87番長尾寺と88番大窪寺の間にある四国遍路に関する資料館でゲストブックに記入した外国人歩き遍路[40][39]は2007年に44人だったものが[38]、2013年度の160人、2014年度は404人、2015年度は429人、2016年度は448人[40]、2017年度には416人へと10年で10倍ほどに増えており[38]、2017年度は、フランス、台湾、アメリカ合衆国、オランダの順で多かった[38]。また、外国人遍路へのサポートとして各札所への英会話カードの配置を進めている人[41]も現れた。
米紙『ニューヨーク・タイムズ』が2015年1月に掲載した世界の観光地ベスト52で「四国と遍路」が35位にランクされている[42]。
2018年11月に四国経済連合会などが行った調査では、国内の巡礼者は10年前比で平均38%減少しており、70%減少していると回答した寺もある。一方、外国人巡礼者が「増えた」と回答した寺は9割以上であった[38]。
2020年、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行で全国に緊急事態宣言が出たことにより、同年4月18日、霊場会は各札所に納経所の閉鎖を要請[43]、4月中旬より順次79箇所の札所が納経所などを閉鎖し、そのうち3箇所は閉山した。このような事態は霊場会が発足した以降は初めてのことである。その後、同年5月11日に75箇所の札所が納経所を再開。その後も再開が広がり、6月1日より全札所は元通りに戻った(霊場会公式ホームページより)。
霊場一覧
以下に四国八十八箇所霊場の一覧を国(県)ごとに示す。この表の注意事項・解説は表の下に記する。
阿波(発心の道場)
徳島県にある1 - 23番までの寺院一覧。
土佐(修行の道場)
高知県にある24 - 39番までの寺院一覧。
No. |
山号 |
山号の読み |
院号 |
寺号 |
寺号の読み |
宗派 |
本尊 |
所在地
|
24 |
室戸山 |
むろとざん |
明星院 |
最御崎寺 |
ほつみさきじ |
真言宗豊山派 |
虚空蔵菩薩 |
室戸市
|
25 |
宝珠山 |
ほうしゅざん |
真言院 |
津照寺 |
しんしょうじ |
真言宗豊山派 |
延命地蔵菩薩 |
室戸市
|
26 |
龍頭山 |
りゅうずざん |
光明院 |
金剛頂寺 |
こんごうちょうじ |
真言宗豊山派 |
薬師如来 |
室戸市
|
27 |
竹林山 |
ちくりんざん |
地蔵院 |
神峯寺 |
こうのみねじ |
真言宗豊山派 |
十一面観音菩薩 |
安田町
|
28 |
法界山 |
ほうかいさん |
高照院 |
大日寺 |
だいにちじ |
真言宗智山派 |
大日如来 |
香南市
|
29 |
摩尼山 |
まにざん |
宝蔵院 |
国分寺 |
こくぶんじ |
真言宗智山派 |
千手観音菩薩 |
南国市
|
30 |
百々山 |
どどさん |
東明院 |
善楽寺 |
ぜんらくじ |
真言宗豊山派 |
阿弥陀如来 |
高知市
|
31 |
五台山 |
ごだいさん |
金色院 |
竹林寺 |
ちくりんじ |
真言宗智山派 |
文珠菩薩 |
高知市
|
32 |
八葉山 |
はちようざん |
求聞持院 |
禅師峰寺 |
ぜんじぶじ |
真言宗豊山派 |
十一面観音菩薩 |
南国市
|
33 |
高福山 |
こうふくざん |
幸福院 |
雪蹊寺 |
せっけいじ |
臨済宗妙心寺派 |
薬師如来 |
高知市
|
34 |
本尾山 |
もとおさん |
朱雀院 |
種間寺 |
たねまじ |
真言宗豊山派 |
薬師如来 |
高知市
|
35 |
醫王山 |
いおうざん |
鏡池院 |
清瀧寺 |
きよたきじ |
真言宗豊山派 |
薬師如来 |
土佐市
|
36 |
独鈷山 |
どっこざん |
伊舎那院 |
青龍寺 |
しょうりゅうじ |
真言宗豊山派 |
波切不動明王 |
土佐市
|
37 |
藤井山 |
ふじいざん |
五智院 |
岩本寺 |
いわもとじ |
真言宗智山派 |
五仏[注釈 21] |
四万十町
|
38 |
蹉跎山 |
さださん |
補陀洛院 |
金剛福寺 |
こんごうふくじ |
真言宗豊山派 |
三面千手観音菩薩 |
土佐清水市
|
39 |
赤亀山 |
しゃっきざん |
寺山院 |
延光寺 |
えんこうじ |
真言宗智山派 |
薬師如来 |
宿毛市
|
伊予(菩提の道場)
愛媛県にある40 - 65番までの寺院一覧。
No. |
山号 |
山号の読み |
院号 |
寺号 |
寺号の読み |
宗派 |
本尊 |
所在地
|
40 |
平城山 |
へいじょうざん |
薬師院 |
観自在寺 |
かんじざいじ |
真言宗大覚寺派 |
薬師如来 |
愛南町
|
41 |
稲荷山 |
いなりざん |
護国院 |
龍光寺 |
りゅうこうじ |
真言宗御室派 |
十一面観音菩薩 |
宇和島市
|
42 |
一か山[注釈 22] |
いっかざん |
毘盧舎那院 |
佛木寺 |
ぶつもくじ |
真言宗御室派 |
大日如来 |
宇和島市
|
43 |
源光山 |
げんこうざん |
円手院 |
明石寺 |
めいせきじ |
天台寺門宗 |
千手観音菩薩 |
西予市
|
44 |
菅生山 |
すごうざん |
大覚院 |
大寶寺 |
だいほうじ |
真言宗豊山派 |
十一面観音菩薩 |
久万高原町
|
45 |
海岸山 |
かいがんざん |
|
岩屋寺 |
いわやじ |
真言宗豊山派 |
不動明王 |
久万高原町
|
46 |
医王山 |
いおうざん |
養珠院 |
浄瑠璃寺 |
じょうるりじ |
真言宗豊山派 |
薬師如来 |
松山市
|
47 |
熊野山 |
くまのざん |
妙見院 |
八坂寺 |
やさかじ |
真言宗醍醐派 |
阿弥陀如来 |
松山市
|
48 |
清滝山 |
せいりゅうざん |
安養院 |
西林寺 |
さいりんじ |
真言宗豊山派 |
十一面観音菩薩 |
松山市
|
49 |
西林山 |
さいりんざん |
三蔵院 |
浄土寺 |
じょうどじ |
真言宗豊山派 |
釈迦如来 |
松山市
|
50 |
東山 |
ひがしやま |
瑠璃光院 |
繁多寺 |
はんたじ |
真言宗豊山派 |
薬師如来 |
松山市
|
51 |
熊野山 |
くまのざん |
虚空蔵院 |
石手寺 |
いしてじ |
真言宗豊山派 |
薬師如来 |
松山市
|
52 |
瀧雲山 |
りゅううんざん |
護持院 |
太山寺 |
たいさんじ |
真言宗智山派 |
十一面観音菩薩 |
松山市
|
53 |
須賀山 |
すがざん |
正智院 |
圓明寺 |
えんみょうじ |
真言宗智山派 |
阿弥陀如来 |
松山市
|
54 |
近見山 |
ちかみざん |
宝鐘院 |
延命寺 |
えんめいじ |
真言宗豊山派 |
不動明王 |
今治市
|
55 |
別宮山 |
べっくさん |
金剛院[注釈 23] |
南光坊 |
なんこうぼう |
真言宗御室派 |
大通智勝如来 |
今治市
|
56 |
金輪山 |
きんりんざん |
勅王院 |
泰山寺 |
たいさんじ |
真言宗単立 |
地蔵菩薩 |
今治市
|
57 |
府頭山 |
ふとうざん |
無量寿院 |
栄福寺 |
えいふくじ |
高野山真言宗 |
阿弥陀如来 |
今治市
|
58 |
作礼山 |
されいざん |
千光院 |
仙遊寺 |
せんゆうじ |
高野山真言宗 |
千手観音菩薩 |
今治市
|
59 |
金光山 |
こんこうざん |
最勝院 |
国分寺 |
こくぶんじ |
真言律宗 |
薬師如来 |
今治市
|
60 |
石鈇山 |
いしづちざん |
福智院 |
横峰寺 |
よこみねじ |
真言宗御室派 |
大日如来 |
西条市
|
61 |
栴檀山 |
せんだんざん |
教王院 |
香園寺 |
こうおんじ |
真言宗単立 |
大日如来 |
西条市
|
62 |
天養山 |
てんようざん |
観音院 |
宝寿寺 |
ほうじゅじ |
真言宗善通寺派 |
十一面観音菩薩 |
西条市
|
63 |
密教山 |
みっきょうざん |
胎蔵院 |
吉祥寺 |
きちじょうじ |
真言宗東寺派 |
毘沙聞天 |
西条市
|
64 |
石鈇山 |
いしづちざん |
金色院 |
前神寺 |
まえがみじ |
真言宗石鈇派 |
阿弥陀如来 |
西条市
|
65 |
由霊山 |
ゆれいざん |
慈尊院 |
三角寺 |
さんかくじ |
高野山真言宗 |
十一面観音菩薩 |
四国中央市
|
讃岐(涅槃の道場)
香川県にある66 - 88番までの寺院一覧。ただし、66番は香川県・徳島県境の徳島県側にある。
No. |
山号 |
山号の読み |
院号 |
寺号 |
寺号の読み |
宗派 |
本尊 |
所在地
|
66 |
巨鼇山 |
きょごうざん |
千手院 |
雲辺寺 |
うんぺんじ |
真言宗御室派 |
千手観世音菩薩 |
三好市
|
67 |
小松尾山 |
こまつおざん |
不動光院 |
大興寺 |
だいこうじ |
真言宗善通寺派 |
薬師如来 |
三豊市
|
68 |
七宝山 |
しっぽうざん |
|
神恵院 |
じんねいん |
真言宗大覚寺派 |
阿弥陀如来 |
観音寺市
|
69 |
七宝山 |
しっぽうざん |
|
観音寺 |
かんのんじ |
真言宗大覚寺派 |
聖観音菩薩 |
観音寺市
|
70 |
七宝山 |
しっぽうざん |
持宝院 |
本山寺 |
もとやまじ |
高野山真言宗 |
馬頭観音菩薩 |
三豊市
|
71 |
剣五山 |
けんござん |
千手院 |
弥谷寺 |
いやだにじ |
真言宗善通寺派 |
千手観音菩薩 |
三豊市
|
72 |
我拝師山 |
がはいしざん |
延命院 |
曼荼羅寺 |
まんだらじ |
真言宗善通寺派 |
大日如来 |
善通寺市
|
73 |
我拝師山 |
がはいしざん |
求聞持院 |
出釈迦寺 |
しゅっしゃかじ |
真言宗御室派 |
釈迦如来 |
善通寺市
|
74 |
医王山 |
いおうざん |
多宝院 |
甲山寺 |
こうやまじ |
真言宗善通寺派 |
薬師如来 |
善通寺市
|
75 |
五岳山 |
ごがくざん |
誕生院 |
善通寺 |
ぜんつうじ |
真言宗善通寺派 |
薬師如来 |
善通寺市
|
76 |
鶏足山 |
けいそくざん |
宝幢院 |
金倉寺 |
こんぞうじ |
天台寺門宗 |
薬師如来 |
善通寺市
|
77 |
桑多山 |
そうたざん |
明王院 |
道隆寺 |
どうりゅうじ |
真言宗醍醐派 |
薬師如来 |
多度津町
|
78 |
仏光山 |
ぶっこうざん |
広徳院 |
郷照寺 |
ごうしょうじ |
時宗 |
阿弥陀如来 |
宇多津町
|
79 |
金華山 |
きんかざん |
高照院 |
天皇寺 |
てんのうじ |
真言宗御室派 |
十一面観音菩薩 |
坂出市
|
80 |
白牛山 |
はくぎゅうざん |
千手院 |
國分寺 |
こくぶんじ |
真言宗御室派 |
十一面千手観音菩薩 |
高松市
|
81 |
綾松山 |
りょうしょうざん |
洞林院 |
白峯寺 |
しろみねじ |
真言宗御室派 |
千手観音菩薩 |
坂出市
|
82 |
青峰山 |
あおみねざん |
千手院 |
根香寺 |
ねごろじ |
天台宗単立 |
千手観音菩薩 |
高松市
|
83 |
神毫山 |
しんごうざん |
大宝院 |
一宮寺 |
いちのみやじ |
真言宗御室派 |
聖観音菩薩 |
高松市
|
84 |
南面山 |
なんめんざん |
千光院 |
屋島寺 |
やしまじ |
真言宗御室派 |
十一面千手観音菩薩 |
高松市
|
85 |
五剣山 |
ごけんざん |
観自在院 |
八栗寺 |
やくりじ |
真言宗大覚寺派 |
聖観音菩薩 |
高松市
|
86 |
補陀洛 |
ふだらくざん |
清浄光院 |
志度寺 |
しどじ |
真言宗善通寺派 |
十一面観音菩薩 |
さぬき市
|
87 |
補陀洛 |
ふだらくざん |
観音院 |
長尾寺 |
ながおじ |
天台宗 |
聖観音菩薩 |
さぬき市
|
88 |
医王山 |
いおうざん |
遍照光院 |
大窪寺 |
おおくぼじ |
真言宗単立 |
薬師如来 |
さぬき市
|
- 1番から23番は阿波国(徳島県)、24番から39番は土佐国(高知県)、40番から65番は伊予国(愛媛県)、66番から88番は讃岐国(香川県)に位置する。ただし、66番雲辺寺は、行政区画上は徳島県に属する。
- この他に、東寺では「四国八十八箇所の出発寺」として案内している[44]。また、「四国(八十八箇所)(総)奥之院」として、大窪寺とも人的交流があり88番を打った後訪れる遍路もいた時代があったことから大瀧寺が、伊予国関所寺の奥之院であることから伊予国総奥之院としての仙龍寺が、かつて近隣の港への航路が遍路で賑わった頃に多くの人がお礼参りに訪れたことから與田寺[45]が、そのように名乗っている[注釈 24]。以上の番外寺院についてはこの一覧には掲載しない。
- 寺号とは別に通称の寺名のあるところ。24 最御崎寺:東寺(ひがしでら)、25 津照寺:津寺、26金剛頂寺:西寺、32 禅師峰寺:峰寺、67 大興寺:小松尾寺、79 天皇寺:高照院
- 神仏分離令以外の理由で巡拝順が変わったことのある札所は、(60番目→62番目)宝寿寺は一宮で中山川の河口北岸にあり、洪水で流されることが度々あったので僧房のあった現在地に移転した、(63番目→64番目)前神寺は石鈇山で標高1400m付近に寺があったが遍路の便宜のため標高70m付近に里寺納経所を設置したのが後に本寺になった、そのため吉祥寺が64番目だったのが63番目に、それらのため横峰寺が62番目から60番目になった。37番岩本寺は明治の一時期に八幡浜の吉蔵寺に札所権が移って43番の後が37番になっていたが元に戻った。
地図で場所を確認したい場合、表中の左の寺の番号 (No.) に各々の寺の地図がリンクし、また右の「座標を示した地図」では全て(または県別)の寺の地図一覧ができる。
いろいろな巡礼手段
徒歩
伝統的には、四国遍路は「徒遍路」「歩き遍路」と呼ばれる「歩き」で、1日30km歩いても約40日を要する。一時期は峠道や山道などの旧来の遍路道である旧遍路道も廃れ、幹線道路を歩くところが多くなっていたが、寺院や自治体や地元の人たち、へんろみち保存協力会などの尽力によって、昔ながらの姿を留めている旧遍路道の復元作業が各地で進展し、道しるべの設置や道の修繕が行われた。国や自治体では、遍路道とは別に、四国八十八箇所やその他の史跡や自然を辿る道を「四国のみち」として各種整備している。「四国のみち」と旧来の遍路道は一体となっているわけではないが、重複部分は、「四国のみち」として案内板や登山道の整備などがなされている。
遍路の中には先を急ぐあまり夜間も歩行する者がいるが、街灯のない遍路道も多く、遍路道しるべを見逃して、遭難事故が発生している。歩き遍路は朝早くに出て、夕方までには宿に着くのが基本である。歩き遍路のルートを解説した書籍も何点か販売されている。
- 江戸期の巡礼では河川や湾口の通行に渡し船を使うことがあり、吉野川、浦戸湾(32番から33番の間)、浦ノ内湾(35番から36番の間)、四万十川(37番から38番の間)などにあった。巡礼者が渡し船を使うと、たいていは渡し賃が無料であったと伝えられている。現在では浦戸湾の種崎・長浜間の渡し船(県営フェリー)が残るのみである[46]。
公共交通機関の利用
体力や身体的な理由などで全てを徒歩で巡礼するのは無理だが、できる限り歩きつつ公共交通機関を利用する巡礼者もいる。2006年から四国運輸局では、公共交通を利用した四国遍路のためのガイドリーフレットを作成、配布している[47]。ただし、公共交通機関が無い区間や、電車やバスの本数が少なく不便な地域も多い。
バスによる団体巡礼
昭和40年代からの四国内の道路事情の改善もあり、大型観光バスによるお四国巡りの団体巡礼が企画催行されている。何泊もしながら1回で回り切る本格的なもの、一国参りといって1つの県内を回るもの、原則日帰りで、1回で10か寺程度ずつお参りし、何回かのツアーに参加して結願となる手軽なものなど、さまざまである。地元の会社が主催する四国発着の団体巡礼もあるが、大手ツアー会社が主催する関西や中国地方からの団体巡礼も多く、近年では関東などからの団体巡礼も増えている。団体巡礼では本堂や大師堂での読経は先達(後述)や僧侶が先導してくれ、納経帳に判を貰うのは添乗員が代行してやってくれる。このようなツアー会社やバス会社主催の団体巡礼以外にも、札所や寺院、各地の参拝団(講)が主催する団体巡礼もある。小規模な団体や大型バスが通行できない札所への参拝は、マイクロバスやジャンボタクシー等も利用される。
自動車・オートバイでの巡礼
マイカーやレンタカーなどの自動車、オートバイを利用して巡礼する人も多い。自分の休日を利用して少しずつ計画的に回る人もいる。今では車道の整備が進み、ほとんどの札所で境内に隣接した駐車場まで行けるようになり、太龍寺と雲辺寺ではロープウェイを、八栗寺ではケーブルカーを利用することができ、境内まで徒歩が必要な区間が長いところは、約20分かかる焼山寺と横峰寺、約30分かかる岩屋寺くらいになった。そして、高速道路を利用すれば、四国の主要都市から全ての札所へ日帰りが可能である。ただし、境内が広く山の斜面にあるため弥谷寺のように本堂までの高低差が大きい所も少なくない。
自転車での巡礼
自転車を趣味とする人や、歩きでは時間的・体力的に無理でも自分の力で巡礼をしたいという人が自転車を利用している(いわゆる「チャリンコ遍路」)。山間部の登りは押して上がることも多いが、おおむね10日から14日で結願できる。
自転車としては、変速ギアを装備し長距離走行に向いた車種[注釈 25]が多いが、シティサイクル(ママチャリ)や電動アシスト自転車、折りたたみ自転車等も使用されている。ただし、ビーチクルーザーは浜辺を走行するための車種である関係上、遍路への使用には向かない。また、リカンベントは視野が悪いため、山道での走行は非常に危険となるので、同じく遍路には向かない車種である。
関連書籍も発売されている[48]。
四国遍路に因む文化
人物
- 衛門三郎
- 衛門三郎は、四国を20回以上巡り空海に詫びを伝え息絶えたと云われる四国霊場にまつわる伝説上の人物。
- 真念法師
- 貞享4年(1687年)に『四国遍路道指南』を刊行した。発見されているそれまでの書物は遠慮があり番号を付けてなかったが、真念は下級僧ゆえ遠慮無く寺に番号を付け、宿泊所情報なども盛り込み、巡拝者には重宝なガイドブックとなっている。
- 中務茂兵衛(なかつかさもへい)大先達
- 弘化2年(1845年)周防国(現在の山口県)生まれ、本名は中司亀吉、法名は義教。四国八十八箇所巡礼を慶応2年(1866年)から大正11年(1922年)まで歩きで280回巡拝し、しるべ石を230余基を建立した。大正10年(1921年)に76歳で遍路中に没した。
- 宮崎建樹導師
- 自身の病がきっかけで1978年に歩き遍路を始め、その不便さを感じ、多くの道しるべや遍路石を設置。さらに旧遍路道の整備や復元作業をし、当時はなかった歩き遍路のための地図と160ケ所の番外を示した『四国遍路ひとり歩き同行二人 』を1990年に出版した。
装束・持ち物
- 白衣(びゃくえ)
- 笈摺(おいずる。おいずり)とも呼ばれる。巡礼者が着用する白い着衣。四国八十八箇所の寺院や門前の店で購入すると、弘法大師を表す梵字と「南無大師遍照金剛」と背中に書かれたものが一般的である。袖があるものを白衣、袖無しのものを笈摺とする説明もある。宝印を受領するためだけの実際には着衣しない白衣は判衣とも呼ばれる。巡礼の途中でいつ行き倒れてもいいように死装束としてとらえる説もあれば、巡礼といえども修行中なので清浄な着衣として白を身につける、どんな身分でも仏の前では平等なので皆が白衣を着るとする説もある。四国では、全ての札所で判を戴いた判衣を亡くなったとき着せて送り出す風習があり、その判衣を着て遍路をする者もいるがそれは自由である。なお、霊場会では、(作務衣の上に白衣を着たとしても)作務衣やジーパンでの遍路は好ましくないとされている。
- 輪袈裟(わげさ)
- 輪袈裟は袈裟の略式で、遍路には欠かせない法衣である。トイレに行くときや食事の際は外すのが決まりで、着けたままだと見知らぬ先達であろうが注意されることがある。しかし、くれぐれも用を足した後に忘れて行かないように。
- 金剛杖(こんごうづえ)
- 木製の杖で、空海が修行中に持っていた杖に由来する。巡礼者が持つ金剛杖は弘法大師の化身ともいわれるほどで、宿に着いたら杖の足先を清水で真っ先に洗い、部屋では上座や床の間に置くなどの扱いをするのがならわしである。巡礼中、行き倒れた巡礼者の卒塔婆として使用されたといわれる。市販されているものは「同行二人」「南無大師遍照金剛」や頭部に「地」「水」「火」「風」「空」の五輪を表す梵字が書かれ、頭部の五輪は直接手で触れない様に金襴を巻いて持つ、般若心経が書かれているものもあり、橋の上ではついてはならない(後述)。
- 菅笠(すげがさ)
- 日光や風雨から頭部を守る。笠には「迷故三界城」「悟故十方空」「本来無東西」「何処有南北」と「同行二人」と梵字が書かれている。梵字が前になるようにかぶるのが一般的。遍路笠を身につけた巡礼者は、境内で笠を脱がないでお参りすることが許される。堂内でも履物を脱がない外陣の土間の部分なら笠を脱ぐ必要はない[注釈 26]。読みは「迷うが故に三界は城、悟が故に十方は空、本来は東西は無く、何処に南北有らん。」。
- 納札(おさめふだ)
- 札所などにお参りし、納経した証に収める札。般若心経を写経したものを納める(経を納める)のが正式とされているが、読経したのちに自分の名前を書いた納札を納めてもよい。衛門三郎が自分が空海を探しているということを空海に知らせるために(空海が立ち寄ると思われる)寺にお札を打ちつけたのが始まりとされる。かつては木製や金属製の納札を山門や本堂の柱などに釘で打ちつけていた。このことから、遍路自体や、札所に参拝したことを「打つ」ともいう。現在では、お寺の建築物の損傷を避け、持ち運びの利便性を考え、紙製の納札を納札箱に入れることになっている。また、接待をしてもらったら、その人にお礼の気持ちも込めて納札を渡すのが決まりである。結願した回数によってお札の色が変わるが、時代によって変遷している[49]。現在の霊場会では、1 - 4回が白、5 - 7回が緑、8 - 24回が赤、25回以上で銀、50回以上で金、そして100回以上で錦の札とされている。なお、それらの色札を使える回数になっても白の納札を使ってもよく、100回以上回っても白の納札を使う人もいる。また、公認先達は、札所寺院を通じて霊場会に申請することによって25回以上から公認の銀納札と四国を型どった銀色のバッジを、50回以上から公認の金納札と金色のバッジを授けられ使用できる。
用語
- 同行二人(どうぎょうににん)
- 仮に一人で四国八十八箇所を巡っても、同行二人と言って常に「お大師さん」(弘法大師)と一緒にいる想いで巡礼している。「同行二人」は参拝の道具にも記されている。同行二人の巡礼者ともう一人は弘法大師以外でも、亡くなった家族や先祖、帰依する如来や菩薩などのことを想ってもよいとする教えもある。
- 南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)・宝号
- 「南無」は「帰依する。信じる」という意味。「遍照金剛」は、空海の師・恵果から灌頂を受けたときの投華得仏が大日如来で、その密号である遍照金剛が空海に授けられた。宗派によっては「南無遍照金剛」と唱えるところもあるが、当霊場では「南無大師遍照金剛」と唱える。現在では「空海」「弘法大師」または「お大師」と呼ぶのが一般的であるが、本人は遍照金剛の名を好んだとみえて自身の著作にはこの名を使い、天皇に上奏する時は謙って空海と記しているという見解もある。
- 十善戒(じゅうぜんかい)
- 遍路が守るべき10の戒。
- お接待
- 道中、お遍路さんに対して地元の人々から食べ物や飲み物、手ぬぐいや善根宿、ときには現金を渡す無償の提供がなされる伝統。これに対し、遍路は持っている納札(おさめふだ)を「お接待」してくれた人に渡すことになっている。こうした文化のおかげで、昔は比較的貧しい人であってもお参りができたといわれる。今日でも四国西南部ではお接待の場ともなった「茶堂」が残っている。「お接待」の心は、接待することによって功徳を積む、巡礼者もまた弘法大師のある種の化身であるという言い伝えからや、一種の代参のようなものなど様々である。観光振興や観光従事者の研修等では「もてなしの心」と拡大解釈されることがある。元々は関西で西国三十三所観音霊場の修行者、巡礼者に対して始まったとされるが、観光化・俗化したために関西では早くに廃れたといわれている。四国以外の地域でも、接待講と呼ばれる講を組み、浄財を集め、四国で遍路に対して接待をするということも行われた。また、どこに行けばお接待が受けられるなどの情報が流れると遍路が集まり、善意の気持ちで行われるお接待が義務化され負担になってしまうことから、へんろみち保存協力会では善根宿などのお接待の情報は掲載せずに「縁をたずね歩いてほしい」と伝えている[50]。
- 善根宿(ぜんこんやど、ぜごんやど)
- 善人宿とも呼ばれる。広義では自宅の前を通った遍路に「一晩泊っていきなさい」と一夜の宿を提供するのも善根宿といわれる。一般的には「お接待」の心で善意で用意された簡易宿泊施設である。施設を提供するのは個人や企業、地域ぐるみなど様々である。
- 通夜堂(つやどう)
- 本来は寺院内で夜を徹して読経や真言を唱える修行をするための施設(お堂)だが、四国八十八箇所においては霊場が巡礼者に対して用意した簡易宿泊施設という意味合いが強い。宿坊とは違い寝るだけの最低限の設備しかない[注釈 27]。かつては通夜堂を持つ霊場が多かったが、旅館などの宿泊施設が増えたことや、利用者のマナーなどの問題により減少し、現在では通夜堂を持つ霊場[注釈 28]は2割程度である。
- いざり車
- 歩行不可能、困難な巡礼者はかつて「いざり車」に乗って巡礼した。これは現代でいう車椅子にあたるもので、小さいものは台車のようなものだが、大きなものは小屋に両輪がついたようなもので、この中で寝泊りできたという。遍路では主に後者の小屋タイプが使われていた。村によっては、いざり車を見かけると隣村まで押していく、という決まりごとがあったと伝えられている。
- 土佐は鬼国
- 江戸時代、土佐国(現・高知県)では巡礼者の入国、出国は甲浦(現・東洋町甲浦地区)と松尾峠(現・宿毛市)の関所2か所のみとされた。入国してからも札所以外の立ち寄りは禁止など厳しい制限がかけられた。また遍路狩りのようなこともあったといわれている。また、四国で最も廃仏毀釈が激しかったのは土佐であり、このようなことから、巡礼者の間では「鬼国土佐」などと呼ばれることもあった。といっても、入ってしまえば、草の根を分けてでも取り締まることはそうそうなく、気候温暖で過ごしやすく、民衆の接待は他の国と同様であったため、冬には乞食遍路が集まってきたといわれている。そのため晩秋の頃からは遍路に対しては関所を閉じるということもあった。
- 橋の上では杖をつかない
- 現在の愛媛県大洲市付近で空海が一宿を求めたがどの家からも断られ、仕方なく橋の下で寝ることとなった。寒さと旅人が杖で橋を突く音でまったく眠れず、一夜が十夜にも感じられた、という和歌が残っている。このため巡礼者は橋の下には空海がいるかも知れないから橋を渡る時は杖を突いてはならないというならわしがある。すぐそば、国道に面して永徳寺(番外霊場)があり、お参りする人も多い。現在、その橋は「十夜ヶ橋(とよがはし)」と呼ばれ国道56号の一部となり、交通量の多いコンクリート橋になっているが、橋の下で空海を偲びつつ野宿することができる。雨期には冠水する場合もあり、夏季は蚊が多い。
- 地四国・島四国・新四国
- 四国八十八箇所のことを略して「お四国参り」あるいは「お四国」「お大師さん」と呼ぶことがあるが、日本の各地には民衆信仰としての地四国あるいは「ミニ四国」「新四国」と呼ばれるものがある。離島では島を四国に見立てて、八十八箇所を再現した島四国も瀬戸内海を中心に存在し、小豆島や伊予大島が代表例である。また、愛知県を中心とする周辺(東海地方)では新四国に対して四国八十八箇所を「本四国」と呼ぶ。
- 島四国として江戸時代より小豆島には小豆島八十八箇所霊場、江戸には御府内八十八箇所霊場、九州には篠栗八十八箇所霊場、また、仁和寺(京都市)の「御室八十八ヶ所霊場」(OMURO88)、矢田寺(奈良県大和郡山市)八十八ケ所霊場巡り[51]、大師山寺(奈良県吉野郡吉野町上市)新四国八十八ヶ所霊場のように裏山や境内の一角に造られ一寺で完結する霊場など全国各地に大小様々な巡礼地が作られている。明治以降に開拓が本格化した北海道でも、天塩川流域の天塩新四国八十八ヶ所霊場、恩穂山新四国八十八ヶ所霊場(美深町)が設けられた[52]。
- 関所寺
- 邪悪な心の者はそこから先に進めぬという関所寺が各県に1箇所ずつあり、徳島県は19番立江寺、高知県は27番神峰寺、愛媛県は65番三角寺[注釈 29]、香川県は66番雲辺寺とされている[53]。なお、40番観自在寺は四国裏関所寺、43番明石寺は本関所寺[54]といわれる。愛媛県は48番西林寺[55][56]であるという説もある。
四国八十八箇所霊場会
- 概要
- 四国八十八箇所霊場会(以下、四国霊場会)とは四国八十八箇所霊場の寺院の住職が発起人となり1958年(昭和33年)に発足し、2017年6月1日に一般社団法人四国八十八ヶ所霊場会として法人化した[57]。本部は善通寺の敷地内に設置されている。なお、7番十楽寺と12番焼山寺は参加していない。
- 役員(令和6年6月より4年間)
- 総裁:75番善通寺
- 会長:海老塚和秀(31番竹林寺)、常務理事:39番延光寺
- 部会長 徳島県:14番常楽寺、愛媛県:64番前神寺、香川県:83番一宮寺
- 青年部会長:27番神峯寺
- 公認先達
- 四国霊場会が先達を公認する制度で、4回の巡拝により結願し霊場寺院に申込み審査の上、毎年12月に善通寺で行われる先達研修会に参加すると新補先達になる。その後、2年経過後2結願で権中、2年2結願で中、3年3結願で権大、3年3結願で大、その後は、特段貢献した者が表彰され、その後に準特任(定員30名)そして、特任(定員10名)になる。なお、寺持ち住職がなれる元老もある。
- 2021年12月時点の公認先達の有効総数は8,725人で、2019年の新規先達数は254人、2020年は140人、2021年は185人である[58]。
- 開創1200年記念事業
- 空海(弘法大師)が42歳のとき四国を巡錫したとされる年を起点に1200年目に当たる2014年に、各寺院が普段は公開されない秘仏の本尊や秘蔵の仏像を公開したり、本堂や大師堂の開扉や入堂が許されたり、特別法要や公演が行われた[59]。
- 行事の一つとして、「お大師さまと歩む四国遍路」と称した徒歩練行は2013年2月4日に善通寺を起点に全札所を25回の区切りで一巡し、2014年5月9日に善通寺において結願するとともに、開創1200年記念法要が行われた。
- また、2013年3月には中部国際空港、4月には東京・丸の内、5月には仙台空港で出開帳が行われた。それに使われた八十八の出開帳本尊と等身大の弘法大師立像は平成18年製作開眼されたもので、善通寺遍照閣1階に常設されている。
- 開創事業は50年毎に行われたようで、50年前の納経帳に記念スタンプが押されたものが残っていたり、59番国分寺の境内入口門柱に「為四国開創一千百年記念建立」と刻まれたりしていることが示している。
- 徒歩練行は、翌年の2015年(平成27年)4月22日から、高野山、吉野、奈良、京都へと続けられ、2017年6月21日善通寺に帰るまで断続的に行われた。
- 弘法大師御誕生1250年記念事業
- 令和5年4月24日青年僧12名と先達32名で善通寺三山(我拝師山・筆ノ山・香色山)を登拝し、下山後御影堂で法楽奉納され、夜には丸亀にて記念祝賀会が催行された。そして、翌25日善通寺にて「御誕生1250年記念大法会並びに記念柴燈大護摩供」が行われた。
- 「お大師さまと歩む四国遍路2」の徒歩練行は2024年11月11日に竹林寺を起点に全札所を20回の区切りで一巡する予定である。
- 記念御影・記念散華
- 昭和63年の「瀬戸大橋開通記念」は版画絵[注釈 30]と御詠歌が書かれた札が、平成10年の「明石海峡大橋開通記念」は青地に金の梵字の御影が、平成11年の「西瀬戸自動車道開通記念」は銀地に青の梵字の御影が、平成26年の「四国霊場開創1200年記念」は赤地に白の梵字の御影が納経したとき配布された。なお、平成26年は納経帳に同記念スタンプも押印され、昭和59年(1984年)「弘法大師御入定1150年御遠忌」以来の記念スタンプであった。
- 平成28年の「日本遺産の認定記念・閏年限定」は記念散華が納経をしたとき配布され(四国霊場会のHPより)、各寺には、日本遺産の石碑が設置された(宝寿寺を除く八十七ヶ寺)。
- 賜弘法大師号1100年記念として、令和元年5月1日より令和4年5月31日まで御詠歌御影札が配布、また、令和2年元旦より大師納経が行われる。
- 弘法大師御誕生1250年記念として令和4年6月15日より今後2年半にわたって、記念スタンプの納経帳への押印と弘法大師の生涯を絵に表したカード(その88記念カードは各寺1枚ずつ配布、ただし、1番霊山寺のみ2枚配布、7番十楽寺は無し) の配付とが始まった。
- 四国霊場会が関連した裁判・事件
- 四国霊場会はある写真家の写真集に収録された霊場会お砂ふみ本尊の写真を著者に無断で複写し、「霊場会彩色御陰」として各札所寺院で販売することにした。そのため著者である写真家が不正競争防止法をもとに平成19年に東京地方裁判所に提訴した。原告の写真家は御陰を販売することがない、元々の本尊の図像著作権は別の画家から霊場会が数千万円で購入したもの。このような理由で原告が一審、控訴審で敗訴。現在、「四国88か所彩色お御陰」は各札所寺院で販売されているが、「一言、写真家の了解を得て」複写すれば問題が生じなかったものを(地裁の判決では「ただ乗り」と表現)裁判闘争の果てに販売されたものであることを知る人は少ない[60]。
- 四国霊場会は六十二番札所の宝寿寺の住職が同会に入会せず会則に従わなかったため、宝寿寺の住職に対して2015年3月に高松地方裁判所に民事訴訟を起こしたが、霊場会が敗訴した。高松地裁の判決によると「四国霊場会は住職個人が会員となる任意団体」であり住職個人に入会を強制できない。また「宗教的人格権を有する団体でなく札所寺院の経済的目的から運営されている団体」であるから宗教的人格権をもとに札所寺院の住職に規約にしたがうことを強制できない。とある[61]。なお、2019年12月より宝寿寺は霊場会に復帰した。詳細は宝寿寺#霊場会退会と再加入を参照。
文化財
- 国宝
- 二王門(51番石手寺)
- 本堂(52番太山寺)
- 本堂(70番本山寺)
- 金銅錫杖頭(75番善通寺)
- 一字一仏法華経序品(75番善通寺)
- 名勝
- 阿波国分寺庭園(15番国分寺)
- 竹林寺庭園(31番竹林寺)
- 岩屋(45番岩屋寺)
- 星ヶ森=横峰寺石鎚山遥拝所(60番横峰寺)
- 特別史跡
- 史跡
- 大日寺境内(板野町)、地蔵寺境内(板野町)、焼山寺道(神山町)、一宮道(神山町)、常楽寺境内(徳島市)、恩山寺道(小松島市)、立江寺道(小松島市)、鶴林寺道(勝浦町)、鶴林寺境内(勝浦町)、太龍寺道(勝浦町および阿南市)、かも道(阿南市)、太龍寺境内(阿南市)、いわや道(阿南市)、平等寺道(阿南市)、平等寺境内(阿南市)、雲辺寺道(三好市)
- 土佐国分寺跡(29番国分寺)
- 土佐遍路道 - 2016年指定、以後随時追加指定[62]
- 清瀧寺境内(土佐市)、青龍寺道(土佐市)、竹林寺道(高知市)、禅師峰寺道(高知市)、観自在寺道(宿毛市)
- 伊予国分寺塔跡(59番国分寺)
- 伊予遍路道 - 2016年指定、以後随時追加指定[62]
- 観自在寺道(愛南町)、稲荷神社境内及び龍光寺境内(宇和島市)、仏木寺道(宇和島市)、明石寺道(宇和島市)、明石寺境内(西予市)、大寶寺道(西予市・大洲市・久万高原町)、大寶寺境内(久万高原町)、岩屋寺道(久万高原町)、岩屋寺境内(久万高原町)、浄瑠璃寺道(久万高原町)、浄瑠璃寺境内 (松山市)、八坂寺境内 (松山市)、浄土寺境内 (松山市)、横峰寺道(西条市)、横峰寺境内(西条市)、三角寺奥之院道(四国中央市)、
- 八幡浜街道笠置峠越(西予市側約0.5 km、八幡浜市側約1.1 km)、夜昼峠越(大洲市・八幡浜市)
- 讃岐遍路道 - 2013年指定、以後随時追加指定[62]
- 曼荼羅寺道(善通寺市・三豊市)、善通寺境内(善通寺市)、根香寺道(坂出市・高松市)、志度寺境内(さぬき市)、大窪寺道(さぬき市)
県指定の文化財
[2番極楽寺]
- 絹本著色両界曼陀羅図 - 縦157cm横107cm
[8番熊谷寺]
- 仁王門附石碑:高さ13.2m、間口9m、1687年建立
- 木造弘法大師坐像
- 大師堂
- 多宝塔
- 中門
- 鐘楼
- 大師堂内厨子
[12番焼山寺]
- 弘法大師坐像:像高79cm寄木内刳玉眼、1400年彩色の銘
- 梵鐘:銅鐘、103cm、径51cm、1649年作
- 焼山寺文書 3通:宗秀奉下文、寺領寄進状目録、佐伯守安寄進状
- (県指定天然記念物)スギ並木:境内の杉の巨木は樹齢数百年といわれる
- (県指定天然記念物)フジの群生地
[15番国分寺]
[17番井戸寺]
[18番恩山寺]
[20番鶴林寺]
- 絹本著色地蔵来迎図
- 三重塔 - 文政十年(1827年)、銅板葺、高さ23m
[21番太龍寺]
- (県指定の史跡)太龍寺の丁石:住所は阿南市加茂谷町居谷・一宿寺
[22番平等寺]
[24番最御崎寺]
[26番金剛頂寺]
- 金剛頂寺の仏画
- (県指定天然記念物)ヤッコソウ自生地:高さ10cm内外の小型の植物で、花季は11月下旬〜12月上旬
[29番国分寺]
- 本堂の厨子・須弥壇
- 絹本著色両界曼陀羅 - 室町時代作
[31番竹林寺]
- 客殿:主屋と玄関は享保20年(1735年)建造、車寄せは文化13年(1816年)建立
- 梵鐘:総高78cm、口径46cm、鋳造は弘安7年(1284年)
- 文殊菩薩座像懸仏
[32番禅師峰寺]
- 梵鐘:鋳銅、総高81cm、口径57cm徳治3年(1308年)在銘
[34番種間寺]
- 木造薬師如来立像:一木造り、像高32.3cm、平安時代後期作
- 石造手水鉢:高さ38cm直径55cm、延宝5年(1677年)作
[35番清瀧寺]
[38番金剛福寺]
- 本尊・木造三面千手観音立像および両脇侍立像(不動明王・毘沙門天)
- 木造二十八部衆立像
- 木造風神・雷神像
- 愛染明王坐像:檜の寄木造、彫眼彩色、像高84.0cm平安後期作
- 高野大師行状図画五巻:高野山の僧、柘宝が応永22年(1415年)に描いた十巻のうちの五巻
[42番仏木寺]
- 本尊・木造大日如来坐像:像高120.2cm、膝張り92cm、カヤ材、建治元年(1275年)作
- 木造弘法大師坐像:像高87.5cm、ヒノキ材の寄木造り、正和4年(1315年)作
[44番大寶寺]
[51番石手寺]
- 木造金剛力士立像:阿形253.3cm、吽形251cm、鎌倉時代後期
- 木造不動明王および二童子立像(護摩堂安置):不動51.8cm、童子27cm、27.6cm、一木造、鎌倉時代中期
- 木造天人面(宝物館蔵)
- 木造獅子頭(宝物館蔵)
- 木造菩薩面(宝物館蔵):24面
- 大壇
- 礼盤
- 銅三鈷鈴
- 絹本および毛髪地著色仏涅槃図:縦206.5cm横157.5cmの掛軸仕立、鎌倉時代作
[52番太山寺]
- 絹本著色弘法大師像 - 鎌倉時代中期以前の作とされる、縦113cm、横118cm
- 梵鐘 - 高さ116cm、直径61cm、鋳銅製、1383年作
[53番圓明寺]
- 八脚門:三間一戸、一重、入母屋造、一軒疎垂木、本瓦葺
- 厨子:一間厨子で、入母屋造、板軒、室町時代作
- 木造阿弥陀三尊像のうち両脇侍立像:観音菩薩立像60.2cmm勢至菩薩立像60.6cm、寄木造、玉眼、1250年頃作
[59番国分寺]
[60番横峰寺]
- 本尊・木造大日如来坐像:本尊の金剛界大日如来像、檜の寄木造、漆箔、彫眼、像高93.5cm、平安時代末期作
- 金銅蔵王権現御正体 - 銅製鍍金、高さ22.2cm、幅14.0cm、平安時代末期作
[62番宝寿寺]
- 孔雀文磬 1面:肩幅17.2cm、裾張り18.8cm、中央高7.8cm、縁厚0.8cm、鋳銅製、鎌倉時代初期
[65番三角寺]
- 本尊・木造十一面観世音立像:像高168cm檜、一木造り、10世紀頃作
[67番大興寺]
- 本尊・木造薬師如来坐像:檜の寄木造り、像高84cm、平安時代作
- 木造天台大師坐像:像高77.2cm、檜の寄木造り、天台宗第三祖智顗の像、1276年法橋佐慶作
- 木造金剛力士像:3.14m、伝・運慶作、鎌倉時代作
- 木造「大興寺」扁額:縦76.3cm、横45.4cm、厚さ5.2cmの桧材、文永四年(1267年)藤原経朝の書
- (県指定自然記念物)小松尾寺のカヤ:樹高20m、胸高幹周3.92m樹齢およそ1200年
- (県保存木)大興寺の大クス:樹齢700年余、樹高25m、幹囲6.7m
(※自然記念物は、「香川県自然環境保全条例」により指定されるもの)
[69番観音寺]
- 本尊・木造大日如来坐像および脇仏薬師如来坐像と釈迦如来坐像:中尊-伝聖観音、像高103.0cm、平安時代作
- 絹本著色両界曼荼羅図
[71番弥谷寺]
- 仏説観仏三昧海経 巻第二
- (県指定の史跡)弥谷寺信仰遺跡:賽の河原、獅子窟、比丘尼谷の磨崖仏、比丘尼谷の墓地大小無数の五輪塔
[72番曼荼羅寺]
[75番善通寺]
- (県指定の史跡)善通寺旧境内
- (県指定の史跡)香色山経塚群
- (県指定天然記念物)境内の大グス - 東院の五社明神の後ろの楠
[78番郷照寺]
- 本尊・木造阿弥陀如来坐像:檜材寄木造り、玉眼
- 絹本著色釈迦三尊二声聞図:鎌倉時代後期作
[81番白峯寺]
- 木造吉祥天立像:台座も含めて榧の一木造り、像高44cm、台座6cm、平安時代作
- 石造笠塔婆(摩尼輪塔):角礫凝灰岩製、元応3年(1321年)2月18日建立
- 五重塔:花崗岩製、高さ2.15m、客殿の裏庭にある。鎌倉時代作
- 石燈籠:花崗岩製の6角形、総高1.9m、鎌倉時代作
[82番根香寺]
- 五大明王像 - 不動、降三世夜叉、軍荼利夜叉、大威徳夜叉、金剛夜叉。不動は南北朝時代作、他の4躯は鎌倉時代作
- 木造智証大師坐像 - 本堂の向って左脇陣に安置、元徳3年(1331年)作
[86番志度寺]
- 閻魔堂
- 奪衣婆堂
- 木造如来形坐像 - 五重塔内
- 木造金剛力士立像
[88番大窪寺]
- 本尊・木造薬師如来坐像:像高89.3cm、本体はカヤ一木造り、彫眼、奈良時代末期作
- 鉄錫杖
- (香川の保存木)大窪寺のイチョウ
- (香川の保存木)大窪寺のサザンカ
ギャラリー
その後
世界遺産化をめぐる動き
1000年を越える歴史を有する巡礼を基礎とした文化であり、世界遺産への登録を目指す動きが四国にはある。特に香川県[63]が意欲的であるものの4県の中でも温度差があったが、2006年11月、文化庁に対して「四国八十八箇所霊場と遍路道」の「暫定リスト」への登載を求め、要望書を提出した[64][65]。
また、民間で遍路道を含めて世界遺産登録に向けた活動を行っている団体があり、その活動に積極的に関わっている札所もある。ただし、霊場会全体で見解が統一されているわけではない。ちなみに、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路や日本の紀伊山地の霊場と参詣道は世界遺産登録されている。
結局、2007年1月には採択されなかったが、四県関係者は今回の関係者の認識統一や採択に向けた課題も整理でき一歩前進と受け止めている。
2008年9月、文化審議会文化財分科会の審議でカテゴリーIaの評価を受ける。
2010年3月16日「四国八十八箇所霊場と遍路道」世界遺産登録推進協議会(四国4県・関係58市町村・8機関・27団体)が設立[66]。
関連作品
書籍
- 入門書・解説本・ガイド
- 宮崎建樹『四国遍路ひとり歩き同行二人 地図編』 第11版 2016年
- 『同 解説編』 第7版 2007年(へんろみち保存協力会、初版 1990年6月25日)
- 一般書籍販売ではないが、通販か一部の札所(下記)・門前店で購入が可能。
- 1、6、21、24、26、37、40、43、44、45、51、75番 ほか
- 永井吐無『四国霊場八十八ヵ寺』(講談社、2001年)
- 串間 洋『四国遍路のはじめ方』(明日香出版社、2003年)
- 藤岡直樹『愛媛へんろ道ウオーキング7コース』(アトラス出版、アトラス地域文化新書、2005年)
- 桜井恵武『四国名刹』(明報社、2008年)
- 『秘仏写真集 四国霊場 仏像を訪ねて』(宮帯出版社、2014年)
- 上巻「(香川・徳島)涅槃・発心の道場編」・下巻「(高知・愛媛)修行・菩提の道場編」
- 以下は体験記(主に新書判)
- 辰濃和男『四国遍路』(岩波新書、2001年)
- 月岡祐紀子『平成娘巡礼記 四国八十八カ所歩きへんろ』(文春新書、2002年)
- 加賀山耕一『お遍路入門・人生ころもがえの旅』(ちくま新書、2003年)
- 黛まどか『奇跡の四国遍路』(中公新書ラクレ、2018年)
- 石川文洋『四国八十八カ所 わたしの遍路旅』(カラー版岩波新書、2008年)
- 家田荘子『四国八十八カ所つなぎ遍路』(ベスト新書、2009年)
- 佐藤孝子『四国遍路を歩く』(日本文芸社・新書、2002年、新版2007年)
- 須藤元気『幸福論』(ネコ・パブリッシング、2005年)
- 本田 亮『ママチャリお遍路1200km - サラリーマン転覆隊』(小学館、2008年7月)
- 牛山 泰博『四国遍路 はにほへと』(美巧出版、2010年5月)
- 桂木 正則『山と海と風と潮 四国八十八カ所歩き遍路旅』(宮帯出版社、2016年5月)
- 柴谷宗叔『四国遍路こころの旅路』(慶友社、2017年4月)
- 研究書
- 五来重『四国遍路の寺』〈上下〉(角川書店、1996年/角川ソフィア文庫、2009年)
- 頼富本宏・白木利幸『四国遍路の研究』(国際日本文化研究センター、2001年)
- 頼富本宏『四国遍路とはなにか』(角川選書、2009年)
- 愛媛県生涯学習センター『四国遍路のあゆみ-平成12年度遍路文化の学術整理報告書』
- 『遍路のこころ-平成14年度遍路文化の学術整理報告書』(非売品)
- 藤沢真理子『風の祈り-四国遍路とボランタリズム』(創風社、風ブックス004、1997年)
- 武田和昭『四国へんろの歴史-四国辺路から四国遍路へ』(美巧社、2016年11月)
- 森正人『四国遍路の近現代 - 「モダン遍路」から「癒しの旅」まで』(創元社、2005年)
- 森正人『四国遍路 八八ケ所巡礼の歴史と文化』(中公新書、2014年)
- 愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター『四国遍路の世界』(ちくま新書、2020年)
テレビ
ラジオ
映画
演劇
- 『夢へんろ 〜どんな時も希望をすてず〜』(前進座、 2007年6月)
漫画
- 『めぐる88』全3巻(2011年 初版発行)岡本一広(電撃ジャパンコミックス)
- 『アルキヘンロズカン』上・下(2012年 初版発行)しまたけひと(アクションコミックス)
- 『おまいりんぐ』(Webコミック 2012年8月8日 - )愛媛のWeb制作会社OpenDesignによる四国ご当地企画。原作小説を元に河原デザイン・アート専門学校漫画クリエイター科の学生とコラボレーションにより更新。四国八十八箇所霊場公認先達の監修[73]。
- 『おへんろ。』(徳島新聞朝刊 2013年10月14日 - )アニメ制作会社ufotableが徳島新聞朝刊にて毎週火曜日に連載しているイラストストーリー[70]。
楽曲
- 『お遍路お札巡り』藤圭子 - LP『圭子のにっぽんひとりあるき』(1974年)に収録
- 『88』打首獄門同好会 - 水曜どうでしょうの企画「四国八十八ヶ所完全巡拝」をモチーフとした楽曲。(楽曲動画)
- 『風に抱かれて』本谷美加子 - オカリナ奏者本谷美加子が四国巡礼のなかで、祈りをテーマに創作したアルバム。
- 『時の旅人』池田綾子/作詞・作曲・歌 - 四国遍路1200年テーマソング
- 『四国ガチンコ!お遍路道修繕プロジェクトCD』藤田賀子(よちこ) - よかった、その先へなど5曲。
脚注
注釈
- ^ 行政機関などは「四国八十八箇所」を使用するが、霊場会は「四国八十八ヶ所」を公式に使用している。
- ^ 1996年に78件が選ばれ今回36件が追加選定され114件になった。
- ^ 本来は「徒遍路(かちへんろ)」と云う。
- ^ 下左の4番大日寺のように以前は墨書が版木の札所があったが、現在は全て手書きの墨書になっている。
- ^ 現代日本の暦では申年は閏年に当たる。
- ^ 杖杉庵縁起によると衛門三郎が弘法大師に出会えたのは天長8年10月20日とされているが、衛門三郎伝説の初見とされる石手寺刻版(1567年)で「天長八年辛亥載」と記されている通り、天長8年(831年)は申年ではない。また、天長8年に閏月はなく、831年はユリウス暦及び太陰太陽暦では閏年に当たらない。
- ^ 新型コロナウイルスの感染が拡大した際およびそれ以降、感染予防のために手水舎を廃止してアルコール消毒に切り替えた札所もある。
- ^ 「四国の辺地を通る僧が知らぬ所に来て、馬に打ちならさるはなし」で、四国を廻っている三人の僧が宿を所望した山中の家で次々と馬に変えられ最後の者が逃げ出した話。1200年頃。
- ^ 「我らが修業せし様は忍褥袈裟をば肩に掛け 笈を負ひ衣はいつとなくしほたれて四国の辺地をぞ常に踏む」1180年
- ^ 影響を受けた寺を札所番号で表示すると、1,2,5,6,7,9,11,13,14,15,16,17,18,19,21,22,44,47,55,59,61,62,63,65,67,70,71,72(慶長の兵火),74,76,77,80,82,83,85,86,87,88[13]
- ^ 「辺」は正しくは「鳥にしんにょう」
- ^ 44番大宝寺をスタートし、68番琴弾と69番観音寺が逆転しているが、それ以外は現在と全く同じ順番で巡拝し43番明石寺で終了している。
- ^ 澄禅の巡拝順を札所番号で表すと、17-16-15-14-13-11-12-18-19〜59-62-61-60-63-64-65-66-67-69-68-70〜88-10〜1の順である。
- ^ 澄禅の日記では『世間流布ノ日記』との表現であるが、初版は現存していない『辺路札所ノ日記』のこととされる。
- ^ その中に「札所八十八ヶ所 道488里…など」内容が一致している。
- ^ その後の改訂版では『四國徧禮道指南』と名称を変えているが、これは、寂本の意見もあり従来使われていた辺路ではなく、広くゆきわたりあまねくとの意味で「徧」を、単なる道ではなくて人として生きる道という意味を含む「禮」を使用して、人の道を求める修行者の意味を込めている。なお以下、一般的な『四国遍路道指南』 と表記する。
- ^ 24番から39番および番外札所月山
- ^ 高知県では明治5年2月の布達で遍路入国禁止[15]
- ^ 高知県では明治9年4月の布達により解除
- ^ 同書によると、現在のような四国霊場会は存在しなかったが、1910年頃に小林正盛という人物が組織化を模索した形跡があるとされる。
- ^ 阿弥陀如来、観音菩薩、不動明王、薬師如来、地蔵菩薩
- ^ 一か山 の「か」は王偏に「果」
- ^ 光明寺
- ^ 大瀧寺は「四国八十八ヶ所総奥ノ院」と、仙龍寺は「四國總奥之院」と、與田寺は「四國八十八ヶ所奥院」と各寺の入口の寺名の石板に表記されている。
- ^ ロードバイク、クロスバイク、マウンテンバイク、シクロクロス、ランドナーなど。
- ^ ケガや病気また故郷を追われた者など顔を晒したくない者でも受け入れたことに由来する。
- ^ 布団も基本的にはない。
- ^ 小屋やガレージなどを一時的に利用してもよいとする霊場を含む。
- ^ 三角寺本堂の前に掲示されている由緒書きに「…殊に四国霊場中當山を伊予の関所として尊信おかざるは偏に御本尊威徳力の如からしむ處と謂うべし。」とある。
- ^ 門脇画伯が4年間に亘り自ら各霊場を巡って制作したもので、昭和41年から44年まで4回に渡って東京三越本店で発表されたものである。
- ^ 第3弾では、鈴井貴之、大泉同じくTEAM NACSの安田顕と森崎博之が一部参加。
- ^ 本企画の前に、「試験に出るどうでしょうシリーズ」という、全国各地に直接赴いて社会科の勉強をする企画があり、その企画の最終日に行われる試験で受験者(第1弾では大泉、第2弾では安田、第3弾では鈴井・安田)が合格点を取れなかった際に、大泉が全責任を取って巡礼を命じられている。
- ^ ほとんどの寺院で先述の巡拝の手順を踏襲していないことが多く、夜間にも巡礼を続行することや短期間で制覇しなければならないという制約などから、寺院や山門を背景に撮影したことで「巡礼」と見なしている。
出典
関連項目
外部リンク
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阿波国(徳島県) 「発心の道場」 | |
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土佐国(高知県) 「修行の道場」 | |
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伊予国(愛媛県) 「菩提の道場」 | |
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讃岐国(香川県) 「涅槃の道場」 | |
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