東寺
東寺(とうじ)は、京都市南区九条町にある、東寺真言宗総本山の日本の仏教寺院。山号は八幡山。本尊は薬師如来。真言宗の根本道場であり、教王護国寺(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる(名称については「寺号」の節を参照)。寺紋は雲形紋(東寺雲)。食堂(本尊・十一面観音)は洛陽三十三所観音霊場第23番札所。 創建由来は、平安京鎮護のための朝廷の官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。このため国宝や重要文化財を含む文化財が多数残る。明治維新まで、東寺の長官である4人の東寺長者は真言宗の最高位であり、中でも長者の筆頭である東寺一長者は律令制における仏教界の首座である法務も兼任する慣例だった。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。1934年(昭和9年)に国の史跡に指定、1994年(平成6年)12月には「古都京都の文化財」の構成資産として世界文化遺産の一つに登録された。 寺号この寺には「東寺」および「教王護国寺」という2つの名称があり、百科事典等でも東寺を見出し語とするものと教王護国寺を見出し語とするものがある[注 1]。さらに正式名として「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」と「弥勒八幡山総持普賢院」の2つの名称がある[1]。宗教法人としての登録名は「教王護国寺」である。 「教王」とは王を教化するとの意味であり、教王護国寺という名称には、鎮護国家の密教寺院という意味合いが込められている。宗教法人としての名称が教王護国寺であるため、寺内にある建造物の国宝・重要文化財を指定する『官報』告示の名称は「教王護国寺五重塔」等となっている。ただし、「東寺」も単なる通称・俗称ではなく、創建当時から使用されてきた歴史的名称である。平安時代以降近世まで、公式の文書・記録等には原則として「東寺」という表記が用いられ、それが正式名称であり、「教王護国寺」という呼称は特殊な場合以外には用いられなかった[2]。平安時代の公式の記録や信頼できる文書類には「教王護国寺」という名称は一切見えず、すべて「東寺」である[3]。正式の文書における「教王護国寺」の初出は仁治元年(1240年)である[4]。国宝に指定されている後宇多天皇の宸翰『東寺興隆条々事書』(延慶8年(1308年))、後宇多天皇宸翰『庄園敷地施入状』、豊臣秀吉が2,030石の知行を認めた天正19年(1591年)の朱印状など、寺の歴史に関わる最重要文書にも明確に「東寺」と表記されている。現代においても、南大門前の石柱には「真言宗総本山 東寺」とあり、南大門、北大門、慶賀門などに掲げられた寺名入りの提灯には「東寺」とあり、宝物館の名称を「東寺宝物館」とするなど、寺側でも通常は東寺の呼称を使用している。 本項では以下、「東寺」の表記を用いる。 歴史8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」[注 2] という2つの寺院の建立が計画された。これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。 南北朝時代に成立した、東寺の記録書『東宝記』によれば、東寺は平安京遷都後まもない延暦15年(796年)、藤原伊勢人が造寺長官(建設工事責任者)となって建立したという。藤原伊勢人については、公式の史書や系譜にはその名が見えないことから、実在を疑問視する向きもあるが、東寺では古くからこの延暦15年(796年)を創建の年としている。それから二十数年後の弘仁14年(823年)、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)は、嵯峨天皇から東寺を下賜され、真言密教の根本道場としたと『弘法大師二十五箇条遺告』(御遺告)[注 3]に記されている[5]。この時から東寺は国家鎮護の官寺であるととも真言密教の根本道場となった。 東寺は平安時代後期には一時期衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。中でも空海に深く帰依したのは後白河法皇の皇女である宣陽門院であった。宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。また、「生身供」(しょうじんく、空海が今も生きているがごとく、毎朝食事を捧げる儀式)や「御影供」(みえく、毎月21日の空海の命日に供養を行う)などの儀式を創始したのも宣陽門院であった。空海(弘法大師)が今も生きているがごとく朝食を捧げる「生身供」の儀式は、21世紀の今日も毎日早朝6時から東寺の西院御影堂で行われており、善男善女が参列している。また、毎月21日の御影供の日には東寺境内に骨董市が立ち「弘法市」「弘法さん」として親しまれている。 中世以後の東寺は後宇多天皇、後醍醐天皇、足利尊氏など、多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。文明18年(1486年)に発生した土一揆のために金堂や講堂、南大門などの主要堂塔のほとんどが焼失したが、延徳3年(1491年)には講堂が再建されている。 天正19年(1591年)、豊臣秀吉により2,030石の知行が認められている。また、金堂は慶長8年(1603年)に豊臣秀頼の寄進により、片桐且元を奉行として再建されている。五重塔は寛永21年(1644年)に徳川家光によって再建が行われた。 1895年(明治28年)には、豊臣秀頼が慶長6年(1601年)に建てた三十三間堂の西大門を、東寺の南大門(重要文化財)として移築している。 何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門・金堂・講堂・食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。 なお、東寺の執行は代々にわたって空海の母方の叔父である阿刀大足の子孫が、弘仁14年(823年)から1871年(明治4年)まで務めた。 金堂![]() 国宝。東寺の中心堂宇で諸堂塔のうち最も早く建設が始められ、東寺が空海に下賜された弘仁14年(823年)までには完成していたと推定される。当初の堂は文明18年(1486年)の土一揆で焼失し、その後1世紀近く再建されなかった。現存の建物は慶長8年(1603年)に豊臣秀頼の寄進により、片桐且元を奉行として再建された。入母屋造本瓦葺きで、外観からは二重に見えるが一重裳階(もこし)付きである。建築様式は和様と大仏様(天竺様)が併用され、貫や挿肘木を多用して高い天井を支える点に大仏様の特色が見られる。内部は広大な空間の中に本尊の薬師如来坐像と日光菩薩、月光菩薩の両脇侍像が安置されている。 なお、金堂は豊臣秀吉の造立した方広寺初代大仏殿(京の大仏)を模したものとの伝承がある[6]。秀吉の造立した方広寺大仏殿を描いた絵図資料として、慶長11年(1606年)作とされる狩野内膳の『豊国祭礼図屏風』があるが[7]、それに描かれた大仏殿の外観と東寺金堂の外観が極めて類似している。金堂には大仏殿のように、堂外から内部に安置されている仏像の御顔を拝顔できるようにする観相窓が設けられているが、それの高さは、安置されている薬師如来の御顔の高さと合っていないので、窓を開けても如来の光背しか見えず、観相窓としては無用の代物になってしまっているという [6]。ただし明かり取り窓としては機能しているという[6]。これは本来この建物のデザインは、大仏を安置するために意匠されたもので、丈六の薬師如来像を安置するために意匠されたものではない(東寺のために意匠されたものではない)ためとされている[6]。江戸時代に刊行された『都名所図会』には金堂について「本尊は薬師仏、脇士は日天・月天なり。焼失の後、豊臣秀頼公の再建なり。洛東大仏殿の模形なり。」と記されている。 金堂の修理工事では、金堂の棟札が確認された。それには豊臣秀頼の寄進によることや片桐且元を奉行として造立工事がなされたことが記されていた。また方広寺の鐘銘に類似した「国家太平 臣民快楽」の文言の記載があった[8]。方広寺の鐘銘では「国家安康 君臣豊楽」と刻字され、それが徳川家康の諱を分断して呪詛し、豊臣を君主とする意図があると徳川方に解釈され、方広寺鐘銘事件さらには大坂の陣での豊臣家滅亡に発展してしまったことは周知の通りである。
講堂![]() 重要文化財。金堂の背後(北)に建つ。東寺が空海に下賜された弘仁14年(823年)にはまだ建立されておらず、天長2年(825年)に空海により着工されて、承和6年(839年)に完成した。この頃は講堂と金堂の周囲を廻廊が巡る形をとっていた。この創建当初の堂は文明18年(1486年)の土一揆による火災で焼失するが、わずか5年後の延徳3年(1491年)に再建されている。単層入母屋造で純和様である。金堂が顕教系の薬師如来を本尊とするのに対し、講堂には大日如来を中心とした密教尊を安置し、立体曼荼羅を構成する。 立体曼荼羅講堂の須弥壇中央には大日如来を中心とする五体の如来像(五仏、五智如来)、向かって右(東方)には金剛波羅密多菩薩を中心とする五体の菩薩像(五大菩薩、五菩薩)、向かって左(西方)には不動明王を中心とした五体の明王像(五大明王)が安置されている。また、須弥壇の東西端にはそれぞれ梵天・帝釈天像、須弥壇の四隅には四天王像が安置されている。以上、全部で21体の彫像が整然と安置され、羯磨曼荼羅(立体曼荼羅)を構成している。これら諸仏は、日本最古の本格的な密教彫像であり、空海没後の承和6年(839年)に開眼供養が行われているが(『続日本後紀』)、全体の構想は空海によるものとされる。21体の仏像のうち、五仏のすべてと五大菩薩の中尊像は室町時代から江戸時代の補作であるが、残りの15体は講堂創建時の像である。 これら21体の仏像群からなる立体曼荼羅(以下「講堂立体曼荼羅」)については、他に例のない尊像構成であることから、空海がいずれの経典に基づき、どのような意図で構想したものか明らかでなく、その教理的背景については古くから論争がある[10][11]。 講堂立体曼荼羅の表す意味について、東密(真言系密教)では古くから「仁王経曼荼羅」(にんのうぎょうまんだら)を表したものであると伝承されてきた。仁王経曼荼羅とは、鎮護国家を祈念する修法である仁王経法の本尊となるもので、『仁王念誦儀軌』を所依経典とする。しかし、講堂立体曼荼羅の尊像構成は『仁王念誦儀軌』だけでは説明がつかない[12]。建築史家の足立康は1940年の論文で、講堂立体曼荼羅は特定の一つの経典に基づくものではなく、『金剛頂経』『仁王経』等から空海が適宜選択した尊像を組み合わせたものであるとした[13]。仏教学者の高田修は、足立説を発展させ、講堂立体曼荼羅は金剛界法と仁王経法に基づく二元的構想によるものであるとし、21体のうちの主要15尊(五仏、五菩薩、五明王)については三輪身説(さんりんじんせつ)に基づいて配置されたものであるとした[14]。三輪身とは、自性輪身(じしょうりんじん)、正法輪身(しょうぼうりんじん)、教令輪身(きょうりょうりんじん)を指し、三輪身説とは、真理そのものである自性輪身が五仏、五仏の慈悲の姿である正法輪身が五菩薩、五仏が忿怒をもって救い難い衆生を導こうとする姿である教令輪身が五明王にあたるとする説である[10][15]。美術史家の石田尚豊は高田説をおおむね支持したうえで、『摂無碍経』(しょうむげきょう)との関係を強調した[14]。 以上のような、金剛界法と仁王経法にまたがる二元的曼荼羅という説は長らく支持されてきたが、三輪身説との関連については、この説の成立が平安時代末期の12世紀に下り、空海の時代にはなかった思想であるとして、疑問が呈されていた[14]。2009年(平成21年)には原浩史により講堂立体曼荼羅に関する新説が提示された。原は、平安時代に東寺講堂で仁王経法が修された形跡のないことなどから、従来の説には疑問があるとし、講堂立体曼荼羅は、広義の『金剛頂経』に基づくものであるとした。ここでいう広義の『金剛頂経』とは、『金剛頂経』系の諸経の総称であり、空海の時代にはいまだその全貌が知られていなかったが、原の説では、空海は自らの理解した『金剛頂経』に基づいて主要十五尊の選択・構成を行ったとする[15]。 諸仏
![]() 講堂安置の仏像一覧[18]
五重塔国宝。東寺のみならず京都のシンボルとなっている塔である。高さ54.8メートルは木造塔としては日本一の高さを誇る。天長3年(826年)空海による創建に始まるが、実際の創建は空海没後の9世紀末であった。雷火や不審火で4回焼失しており、現在の塔は5代目で、寛永21年(1644年)、徳川家光の寄進で建てられたものである。初重内部の壁や柱には両界曼荼羅や真言八祖像を描き、須弥壇には心柱を中心にして金剛界四仏像と八大菩薩像を安置する。真言密教の中心尊であり金剛界五仏の中尊でもある大日如来の像はここにはなく、心柱を大日如来とみなしている。諸仏は寛永20年(1643年)から翌年にかけての作で、江戸時代初期の作風を伝える。初重内部は通常非公開だが、特別に公開される場合もある。北にある池は瓢箪池といい、五重塔とともに池泉回遊式庭園の要素になっている。 初重内部の安置仏像は以下の通り(菩薩像の像名は寺伝による)[19]。
境内![]() ![]()
文化財![]() ![]() ![]() ![]() 国宝(建造物)
(絵画)
(彫刻)
(工芸品)
(書跡・典籍、古文書)
重要文化財(建造物)
(絵画)
(彫刻)
(工芸品)
(書跡・典籍、古文書)
(歴史資料)
(考古資料)
典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、毎日新聞社が2000年に刊行した『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)による。 重要文化財「法会所用具類」の明細
法会所用具類(ほうえ しょようぐるい)
本件は1953年に指定、2011年に追加指定が行われ員数が変更している(平成23年6月27日文部科学省告示第109号)。 追加指定品は以下のとおり。
「持物 13本」とは、東寺の舎利会(しゃりえ)という行事で、仏法を守護する「八部衆」に扮した人々が手にした宝剣などの持物。 「行道面11面」の内訳は八部衆6面(阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅、天(後頭部のみ)、夜叉)、獅子口取3面、獅子子(ししこ)2面からなる。八部衆面は、東寺の舎利会で「八部衆」に扮した人々が付けた面で、8面のうち「竜」を除く7面が現存する。これら7面のうち、「天」の面相部と「乾闥婆」は寺外に出て、個人蔵となっている(「天」の面は面相部と後頭部とが別材から作られており、後頭部のみが東寺に残る)[37]。 国指定史跡京都府指定有形文化財
京都市指定有形文化財関連文化財旧蔵の国宝・重要文化財以下は東寺旧蔵で第二次大戦後に寺の所有を離れた国宝・重要文化財である(国宝・重要文化財指定後に寺を離れたものに限る)[注 9]。 (国宝)
(重要文化財)
東寺伝来文書東寺伝来の文書群のうち、下記が国宝・重要文化財に指定されている。東寺百合文書(ひゃくごうもんじょ)以下3件は第二次世界大戦後に京都府庁および京都大学に譲渡されたもの。滋賀県庁所有分は江戸時代に流出したものである。
行事弘法市(弘法さん)毎月21日は弘法大師の縁日とされ「弘法市」が開かれる。この市は俗に「弘法さん」と呼ばれて親しまれており、特に12月21日の「終い弘法」と1月の「初弘法」は多くの人々でにぎわう[41]。 年中行事
ご詠歌
前後の札所
アクセス
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンクInformation related to 東寺 |