『人生劇場』の題名で、1936年(昭和11年)2月13日に公開。日活多摩川撮影所製作、日活配給。
モノクロ、スタンダード、117分(現存49分[2])。
第13回キネマ旬報ベスト・テン第2位。
内田吐夢の第一回トーキー映画とされているが、現存しているのは、サイレント版のみである。
スタッフ
キャスト
製作
新興キネマを退いた内田吐夢の日活復帰第1回作品である。
原作が「都新聞」に連載していた時から内田吐夢は愛読し、映画化を熱望。
当時としては冒険だった本作の製作を日活多摩川撮影所・所長だった根岸寛一が許可する。
小説はまず築地小劇場で新協劇団によって上演され、その脚色者が亀屋原徳であり、八木保太郎は舞台の戯曲から映画のシナリオを書いた[3]。
トリビア
撮影開始前にスタッフは銀杏の大木を求めて、東京、神奈川、千葉、埼玉と車を飛ばしたが見つからず、撮影を後回しにしようかと言っている時に、助監督が「ありました」と駆け込んできた。
なんと撮影所の門を出て駅へ行く途中、50メートルぐらいの畑の中の一軒家に立っていたという。
[3]
公開
公開当時には批評家からも絶賛され、北川冬彦は「発展途上にある日本トーキーの歴史上においても、重要な基礎の一つをなすものに違いない」と「キネマ旬報」誌上にて言わせている[3]。
当初は「人生劇場」という題名で公開されたが、その後の再公開の際に「人生劇場 青春篇」と副題が付けられた。
脚注
関連項目
外部リンク