伊地知 純正 (いじち すみまさ、1884年 〈明治 17年〉6月17日 - 1964年 〈昭和 39年〉8月11日 )は日本 の英語学者 、早稲田大学 商学部 教授・理事・名誉教授、日本商業英語学会 理事。ペンネーム (略号)はE.D.T. 。
来歴
1884年 (明治17年)6月17日 、宮崎県 西諸県郡 加久藤村(現在の宮崎県えびの市 )にて、伊地知章平・たつ夫妻の間に生まれる。宮崎県立宮崎中学校 3年の時、英文によって自分の意見を発表することを決意する。
1902年 (明治35年)7月にあった旧制高等学校 の入学試験を病気のために諦め、1903年 (明治36年)9月の早稲田大学 の編入試験を受けて早稲田大学商科高等予科に入学する。1904年 (明治37年)、早稲田大学大学部商科に第一回生として入る。在学中はウィリアム・シェイクスピア やラフカディオ・ハーン に熱中し、1905年 (明治38年)に教員となった武信由太郎 に大きく影響を受ける。また、在学中に早稲田大学英語会を創立する。1907年 (明治40年)に卒業する。
1908年 (明治41年)に武信の紹介でジャパンタイムズ に入社し、外務省掛として仕事をする。1909年 (明治42年)から早稲田大学高等予科 で講師となり英作文を教える。
1911年 (明治44年)から1913年 (大正2年)までイギリス 、フランス 、アメリカ に留学する。イギリス滞在時には、英語 ・フランス語 の音声学 をダニエル・ジョーンズ から学ぶ。アメリカ滞在時には、月刊誌“The Oriental Review”の記者を務める。
1914年 (大正3年)に専任講師、1915年 (大正4年)に教授となり英会話を担当する。1925年 (大正14年)5月初旬に開講された英語専攻科の講師に嘱任される。
1933年 (昭和8年)11月、商業英語研究会を創設する。1940年 (昭和15年)、皇紀二千六百年奉祝 を兼ねた早稲田大学創立六十周年記念事業の1つとして記念出版が行われ、薄田斬雲 の『高田半峰片影』と共に、“The Life of Marquis Shigenobu Okuma : A Maker of New Japan”が出版される[ 注釈 1] 。
1945年 (昭和20年)11月29日 、早稲田大学体育会の復活に伴い体育会長となる。同年12月には早稲田大学の新体制推進に伴い、連合国軍最高司令官総司令部 などの外部機関との折衝に当るための渉外部が新設され、渉外部長となる[ 注釈 2] 。1946年 (昭和21年)7月5日 、定時維持員会で早稲田大学理事に選出される。1949年 (昭和24年)10月1日 、早稲田大学第一商学部長に選任される。1954年(昭和29年)、早稲田大学を定年退職する[ 注釈 3] 。
1956年 (昭和31年)7月から1962年 (昭和37年)1月まで、『英語青年 』誌上で“Business Writing”という英文添削指導記事を連載する。
1964年 (昭和39年)8月11日 、老衰のため死去、享年80歳[ 17] [ 18] [ 19] 。
人物
病や死去により“Business English Dictionary”の編纂や「明治維新史」の発表が中断されている。
家中のどの部屋の机にもシェイクスピアの本が数冊置かれており、「朝起きてシェークスピアを読む、寝床に入ってシェークスピアを読む」「年を取って眼が見えなくなったら好きな文章を暗誦出来る様にしておきたい」と言う程にシェイクスピアに傾倒し、会話や文章の中にもシェイクスピアの文を活用するほどにシェイクスピアの造詣が深かった。
一度良いと思うと多少のことでは変えない頑固な性格で、気に入った店は床屋でも靴屋でも引っ越して遠くなっても電車に乗って通うほどであった。
自ら心機一転を図る手段として、自著に書く自身の名前の英語綴りを“Ijichi”、“Idichi”、“Idditti”、“Iddittie”などとよく変えていた。
学制改革 以降の新制大学 時代において、新制早稲田大学商学部の基礎は学部長であった伊地知によって建てられた。
家族
著書
単著
和書
洋書
My London year . Eigo Kenkyusha. (1914). NCID BA08409259
My New York life . Kenkyusha. (1916). NCID BA26055624
My English diary . Kenkyusha. (1918). NCID BA70586233
England revisited . Kenkyusha. (1921). NCID BA12187161
America revisited . Kenkyusha. (1922). NCID BA1186642X
Business English . Kenkyusha. (1924). NCID BA34130168
Practical business English . Fuzambo. (1925). NCID BA69674719
My third visit to London . Waseda University Press. (1933). NCID BA8651677X
A new text book of business English . Fuzambo. (1933). NCID BB25420175
Technical terms in foreign trade . Tokyotaibunsha. (1937). NCID BA68938950
The spring readers . Waseda Press. (1937). NCID BB17869461
The life of Marquis Shigenobu Okuma : A maker of new Japan . Hokuseido Press. (1940). NCID BA26164211
The life of Marquis Shigenobu Okuma : a biographical study in the rise of democratic Japan . Hokuseido. (1956). NCID BA11459379
When two cultures meet : sketches of postwar Japan, 1945-1955 . Kenkyusha. (1955). NCID BA18133074
When two cultures meet : sketches of postwar Japan, 1945-1955 (3rd ed.). Kenkyusha. (1960). NCID BA35933995
共著
脚注
注釈
^ 創立75周年の際に予定されていた大隈重信 の伝記編纂が取りやめとなり、1956年(昭和31年)にはその代わりとして改訂再刊された。
^ 渉外部員であった中島正信 によれば、伊地知は海外では日本以上に著名であり、伊地知を訪ねる外国人が非常に多かったという。
^ 中島正信は、学生・教員のための顧問的存在として伊地知を求め、大濱信泉 総長に定年制の廃止を訴え、大学内に名誉教授室を設けたところ、伊地知はよくその室に訪れていた。
出典
^ 「伊地知 純正氏(早大名誉教授)」『朝日新聞』1964年8月12日、11面。
^ 「伊地知純正氏(早稲田大学名誉教授)」『読売新聞』1964年8月12日、9面。
^ 「伊地知 純正氏(早稲田大学名誉教授)」『毎日新聞』1964年8月12日、15面。
^ 『人事興信録 第14版 上』(人事興信録、1943年)セ7頁
^ 「宮沢・自民党新総裁 「健康で責任果たして」と感無量の庸子夫人」『読売新聞』1991年10月28日、30面。
参考文献
外部リンク