伊藤暢康
伊藤 暢康(いとう のぶやす、1968年11月17日 - )は、宮城県出身の元騎手・調教助手。 来歴競馬学校騎手課程第3期生では蛯名正義・合谷喜壮・塩村克己・芹沢純一・武豊と同期になり、1987年3月に美浦・大和田稔厩舎からデビュー[1]。 1年目の1987年は同1日の中山第8競走4歳以上400万下・オオトネミノル(16頭中16着)で初騎乗を果たし、21日の中山第1競走4歳以上300万下・スガワールドで初勝利を挙げる[2] [3]。9月5日の新潟で初の1日2勝、10月24日の東京で障害初勝利、翌25日の東京でも勝って初の2日連続勝利を挙げたほか[4]、同年春の中山大障害馬メジロアンタレスにも2戦騎乗し[5]、重賞初騎乗となったテレビ東京賞3歳牝馬ステークスでは13頭中10番人気のサンキョウセッツで4着に入った[6] [7]。初年度から2桁勝利の17勝をマークするが、結局この年がキャリアハイとなった[8]。 2年目の1988年には12月10日の中山第12競走4歳以上900万下で14頭中12番人気のミヤギレデイーに騎乗し、同期の蛯名が騎乗する11番人気ローランシンガーの2着に入り、枠連39360円の波乱となった[9]。朝日杯3歳ステークス・ビップフライト(9頭中7着)でGI初騎乗[7]を果たすなど、2年連続2桁勝利となる14勝[8]をマーク。 3年目の1989年には10勝で3年連続2桁勝利を記録したが、1990年は8勝、1991年は6勝に終わる[8]。 1992年にはミホシンザンの初年度産駒[10]オンワードモニカで4歳牝馬特別(東)3着[11]に入り、自身唯一のクラシック騎乗となった優駿牝馬では10番人気ながら1番人気の桜花賞馬ニシノフラワーにアタマ差先着する6着[12]であった。グレイトウェーブでは4月12日の中山第11競走エイプリルステークスでシャコーグレイドを抑えて逃げ切り[13]、福島民報杯ではレッツゴーターキンの3着[14]、ツインターボの長期休養明け復帰戦[15]となった福島民友カップではラビットボールに1馬身半差2着[16] [17]、福島記念ではハシノケンシロウ・ホワイトストーン・ラビットボールを抑えてアラシの3着[18]に入った。同年には3年ぶりに10勝を挙げたが、自身最後の2桁勝利となった[8]。 1994年9月17日の中山第7競走3歳新馬ではプリンセスキャロルでホッカイルソーに7馬身差付けて逃げ切り[19]、1998年1月25日の中山第9競走ジュニアカップでは11頭中10番人気のカワキタマスラオでセイウンスカイの3着[20]に入り、5月30日の東京第4競走4歳未勝利では18頭中18番人気のオンワードシンザンで勝利し、単勝30460円、枠連24970円、馬連25800円の大波乱を演出[21]。 1999年には3月21日の中山第8競走4歳以上900万下・カワキタマスラオで通算100勝[22] [23]を達成し、皐月賞当日の4月18日[24]には中山第6競走4歳以上500万下を16頭中16番人気のミヤギブレーヴで勝利し単勝20320円、馬連106270円の大波乱を起こした[25]。 2003年4月13日の中山第2競走3歳未勝利・シルクアルディが最後の勝利[22]、2005年2月12日の東京第2競走3歳未勝利・ケヤキランバー(15頭中10着)が最後の騎乗[26]となり、2005年4月30日付で現役を引退[3] [27] [28]。 騎手成績
脚注
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