伊藤栄
伊藤 栄(いとう さかえ、1947年1月23日 - )は、北海道出身の元騎手・調教助手。 経歴1960年代1966年3月に東京・中村広厩舎からデビューし、厩舎の同期には牧野三雄がいた。 同5日の東京第10競走5歳以上50万下・チエストヒメ(12頭中9着)で初騎乗[2] [3]を果たすと、4月9日の中山第8競走5歳以上80万下・トパーズミオで初勝利[3]を挙げ、翌10日の中山でも勝利して自身初の2日連続勝利、24日は初の1日2勝を記録[4]。 9月17日の東京第7競走4歳以上オープンではグレートヨルカでミハルカスに4馬身差付けてヒシマサヒデの2着[5]に入り、1年目の同年から2桁勝利で20勝台の26勝[6]をマーク。師匠の中村は同年に46勝[7]を挙げたが、46勝中18勝は伊藤の騎乗[8]であった。 初年度から1973年まで8年連続2桁勝利を記録し、2年目の1967年には自己最多の32勝をマーク[6]。 1967年にはアサカオーの主戦騎手を務め[9]、朝日杯3歳ステークスでは先行策から直線入口で先頭に立ったタケシバオーに一気に離されて[10]3着[11]に終わった。 1968年もアサカオーの主戦を引き続き務めるが、明け4歳初戦の京成杯でタケシバオーと同厩で6頭中5番人気のライトワールド[12]に2馬身離されて2着[13]、続く2月のオープンでもライトワールドにアタマ差及ばず2着[14]に敗れ、3月のオープン勝利後は加賀武見に交代[9]。3戦ぶりに騎乗[9]したスプリングステークスではタニノハローモアには3馬身付けたものの、マーチスの末脚に屈して[15]3着に終わった[16]。 アサカオー以外では、ブラックバトーでクイーンカップを制し重賞初勝利[17]を挙げたが、阪神4歳牝馬特別3着で桜花賞で加賀に交代[18]。 1969年からは10勝台に落ち着くが[6]、エドジョウで同年の京成杯3歳ステークスではアローエクスプレスの2着、1970年の東京4歳ステークスでは9頭中9番人気で3着に入った[19]。 1970年代1971年にはバンライで弥生賞を15頭中10番人気ながら4着とし、皐月賞では15頭中14番人気ながらヒカルイマイの2着、秋のカブトヤマ記念でも2着に入った[20]。 1972年にはバンライでアメリカジョッキークラブカップはメジロアサマの2着[20]を経て、ダイヤモンドステークスで重賞初勝利[20]に導くと同時に自身も4年ぶりの重賞勝利[21]を挙げ、アルゼンチンジョッキークラブカップでは3着[20]に入った。前年夏から主戦を務めていた「花の47年組」のタケクマヒカルではNHK杯でトーヨーアサヒ・ツキサムホマレ・ストロングエイト・ノボルトウコウを抑えて5着[22]、日本短波賞では13頭中10番人気ながらスガノホマレ・イシノヒカル・タカイホーマに次ぐと同時にハクホオショウ・タケデンバードを抑えて4着[23]に入った。毎日王冠では森安重勝から乗り替わったハスラーでオンワードガイを抑えて勝利し[24]、オールカマーではイナボレスの3着に入った[25]。 1974年には弟の稔が栗東・橋田俊三厩舎から騎手デビューしたが、自身は家庭の事情で牧場管理に専念[1]するため、東京新聞杯でタケクマヒカルをイチフジイサミ・ナスノチグサを抑えて2着[26]に導いたのを最後に一度引退[27]。 引退後は実家の牧場を継ぎ、テンポイントが競走中止したことで知られる第25回日本経済新春杯を制したジンクエイトを送り出したが、廃業[28]。 復帰後廃業後の1981年に騎手復帰し、3月1日の中山第2競走4歳未勝利・スガノテスコ(14頭中3着)で7年ぶりの騎乗を果たすと、同馬に騎乗した同28日の中山第3競走で7年ぶりの勝利を挙げる[27]。復帰後の重賞初騎乗[29]となった七夕賞ではエスパルでフジマドンナ・ジュウジアロー・ハワイアンイメージを抑えて2着[30]に入り、同年は7勝[6]をマーク。 1982年には青森・タケミファーム生産馬カミノスミレ[31]でドロドロの不良馬場で行われた目黒記念(春)を13頭中12番人気で快勝し[32]、目黒記念(秋)・ステイヤーズステークス3着と牡馬に混じって健闘を続け、中長距離重賞の紅一点として活躍[33]。ベルベットムーンでは桜花賞で22頭中14番人気ながらリーゼングロスの5着[34]に入り、同年は復帰後初の重賞勝利[35]を含む10勝[6]をマーク。 1984年から1986年には3年連続2桁勝利を記録し、1985年のテレビ東京賞3歳牝馬ステークスでは13頭中12番人気のミスカツラでメジロラモーヌ・ダイナフェアリーに次ぐ4着[36]に入った。 1988年にはタイテエム産駒の牝馬ドリームワールドでカブトヤマ記念3着[37]に入り、1991年には5年ぶりで自身最後の2桁となる10勝[6]をマークするが、1992年には自己最低の1勝[6]に終わる。 1993年3月21日の中山第6競走4歳新馬・アストレジャーで最後の勝利[38]を挙げ、同日の第7競走4歳500万下・ミミオブラッキー(13頭中8着)が最後の騎乗[39]となり、同31日付で現役を引退[40]。 引退後は調教助手となった[40]。 騎手成績
脚注
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