佐野 周二(さの しゅうじ、1912年11月21日 - 1978年12月21日)は、日本の俳優。本名は関口 正三郎(せきぐち しょうざぶろう)[1][2][3]。
昭和初期から後期(1930年代後半〜1970年代)に活躍した二枚目スターの一人である。関口宏、佐野守の父で、関口知宏の祖父に当たる。上原謙、佐分利信とともに「松竹三羽烏」といわれ、松竹大船の第一号スターとされた[3]。
東京市神田区東紺屋町[4](現在の東京都千代田区神田東紺屋町)に鳶職の父·亀次郎と母·マサの四男六女の6番目[3]にあたる三男として生まれた[1]。1925年に今川尋常小学校[1]、1930年に成立商業[1]、1933年に立教大学経済学部予科を卒業[1]。 大学時代は水泳部で[5]、オリンピックの候補だった[6]。
翌年に近衛歩兵第一連隊に入隊[7]して乙種幹部候補生となり、[1] 1935年、陸軍歩兵伍長として除隊[1][7]。1935年に義兄の経営する神戸の貿易商「アサヒ商会」(月給45円の[8]事務員だった[9])に入社するも1月後にの12月に「家族会議」の映画化時に行われた松竹の新人募集に千人の応募者の中から[3]合格[1]、(新聞広告を見た友人にすすめられて応募したとも[1]、友人がいたずら半分に写真を送った後最終審査のために東京へ帰るとこれも合格したとも[7]されている)。
1936年1月1日に松竹に入社[7]。24歳の誕生日に「佐野周二」の芸名を貰った[10]。「大船撮影所1期生」として、同年の佐々木康監督の『Zメン青春突撃隊』で俳優デビュー。立教大学の先輩上原謙とともに、幹部スター候補生として、主役格で使われ、1937年には早くも準幹部に昇格し、島津保次郎監督の『婚約三羽烏』で、上原謙、佐分利信とともに「松竹三羽烏」として共演し、スターの地位を決定的にした。1938年には幹部に昇格し、名実共に松竹を背負って立つ存在となった。
陸軍では、暗号のエキスパートとしての一面があり、1938年7月に応召[7]され第十五航空通信連隊に入隊、暗号掛下士官(軍曹)として中国各地の飛行場で勤務し、1941年4月5日召集解除[11]。 南京では同じ伍長だった小津安二郎と再会している[12]。
1937年秋の時点では独身だったが[13]、1939年に長女加代子が生まれ[14]、1943年に長男宏(出征中だったため連隊長が命名)が生まれている[5]。
次いで東部第六部隊に召集され、陸軍曹長に進級。1944年6月召集解除。 しかし同年「野戦軍楽隊」に出演後まもなく妻・雅子[1]は田舎へ買い出しに行った際に井戸水を飲んだことにより[15]腸チフスで亡くし[1]、死別[16]。
翌1945年3月に航空通信連隊135部隊に入隊し調布飛行場に勤務[1]、特別幹部候補生に対する暗号通信の教育指導にあたる。 計3回応召され、2年半中国大陸にもいた[7]。
燕135部隊航空通信隊に曹長として在籍していた1945年8月15日に次女が重い腸チフスとの連絡を家から受け帰宅すると次女聖子(きよこ[17])(1941年生)が既に死んでいたので軍服でくるみ呆然とした中でラジオで玉音放送を聞いた。何の放送でありましたかと聞くと少尉は多分はげますために天皇が放送されたのであろうと言ったが2時間後に負けたことを知った、それから毎日勤務を放棄し、たらふく食って復員した[18]。
三度の召集の間隙を縫うように、野村浩将監督、李香蘭主演の『蘇州の夜』、小津安二郎監督の『父ありき』などの作品に出演するなど、人気を保ったが、私的には前述のように妻と次女を亡くし試練の時となった。
1946年12月、前妻と同名の女性と二度目の[19]結婚[1](先妻の妹にあたるともされ[20]、山本富士子似だという[19])。 馴れ初めは終戦当時、撮影が京都中心で佐野が出入りしていた店の手伝いをしていたことがきっかけだった[21]。 母の許可を貰い年内に再婚したがすぐに母が死んだため妻と母は会うことはなかった[21]。
しかし後妻との間に生まれた[15]次男・進も夭折[17]。
戦後になっても二枚目スターとして活躍し、重厚な演技を持ち味に木下惠介監督の『お嬢さん乾杯!』、『カルメン故郷に帰る』、吉村公三郎の『春雪』などに出演する。特に、小津安二郎の『風の中の牝雞』では田中絹代と共演し、子供の医療費のために一度だけ売春した妻への、怒りに苦しむが愛情を取り戻していく帰還兵を演じ新境地を切り開いた。猪俣勝人は『日本映画俳優全史』で、戦後は戦前の甘さ爽やかさが失われたと評し従軍体験の翳を嘆いているが、むしろ少し粗野な味やユーモアを加えて幅を広げた演技は『お嬢さん乾杯!』などで引き出されている。
1948年時点では夫妻と子供と女中と佐田啓二と佐田の姉の八人暮らしとされている[22](夏には七人になっている[23])。 同年には新制中学一年用国定教科書の中流家族の写真に採用された[23]。食糧難のため養鶏をしていた[23]。
1950年、三男の守が生まれる、由来は野球の守備から[5]。 同年9月1日、代田の自宅に泥棒が入り、菊紋入り耳飾りと背広8着現金三万五千円を盗まれた[24]。
1952年[17]、三女のM[5]が生まれる。
1955年7月24日、新橋クラブで初の後援会である「まとい会」の発会式が催された、由来は火消しの家に生まれたためそこからマトイ姿をかつぎ出したという[25]。 1956年1月22日、「女房は訴える」(原文ママ)の撮影中に洋服4点を盗まれる、この頃には北沢に自宅を移している(後述)[2]。
1953年2月にはフリー[1]となり、五所平之助(佐野の兄と今川小学校で同期だった[26])の『大阪の宿』や成瀬巳喜男の『驟雨』などに出演し、演技派俳優として確固たる地位を確立する。
1954年7月には、俳優の生活安定の目的を理由に株式会社[27][28]「まどかグループ」を資本金100万円で佐田啓二、桂木洋子、三井弘次ら[1]や、増田順司(企画制作担当重役)[27]らと設立し、社長となり[5]映画制作も手がけた。 まどかグループには坂本武[29]や宮城千賀子[30]、細川俊夫[31]も参加した。
1960年に立教高女[17]を卒業して家事見習いだった[5]長女が結婚[15][32]し、後に二人の孫ができる[33]。
1963年には日本俳優連合の発起人となる[34]。
1965年にまどかグループを解散[1]して以降はテレビにも活躍の場を広げ、主に温厚な父親役で親しまれた。
1972年、長男の宏に息子の智宏(後の関口知宏)が誕生、佐野が名付け親となった[35]。
1978年8月15日に胃潰瘍のため[1]、胃を切除していた[7]、7月末から9月上旬まで入院した[3]。 1978年12月21日午前3時、急性冠不全(急性心不全とも[3])のため世田谷区代沢の自宅で死去[1][36]、勲4等が贈られた[37]。 同年6月に東京12チャンネルのドキュメンタリー「人に歴史あり・佐野周二」に出ていた[3]。 12月24日[38]午後2時から青山葬儀所で告別式が行われ、喪主は長男関口宏が務めた[3]。 木下恵介は、自分がカメラの助手をしてきたころ入ってきてこれがスターかというほどの美青年だったと語り、当時からうまい役者だったが年をとるほど渋みが加わったと追悼した[3]。 生前に遺産について記した遺書を残していた[39]。