八幡市 (福岡県)
八幡市(やはたし)は、かつて福岡県の北東部に存在した市。鉄鋼業を軸に、北九州工業地帯における重工業の中心地として栄えた。1963年2月10日に門司市・小倉市・若松市・戸畑市と合併して北九州市が発足し、消滅した。旧市域は同年4月1日に八幡区として北九州市の行政区となった。 北九州市の合併五市(以下:旧五市)のうち唯一市域が筑前国(遠賀郡・鞍手郡)と豊前国(企救郡)にまたがっていた。八幡区は1974年4月1日に八幡東区と八幡西区へ分割され、八幡東区がもと遠賀郡と企救郡、八幡西区がもと遠賀郡と鞍手郡にそれぞれまたがっている。 なお、京都府八幡市(やわたし)は本市廃止から約14年9ヶ月後の1977年11月1日に発足した市であり、本市と併存した時期はない。 歴史旧五市のうち本市は最も人口の多い市だったが、当初の市域である遠賀郡八幡村は旧五市の核となる自治体のうち町制施行が最も遅く(1900年)、西隣の遠賀郡黒崎村のほうが町制施行が早い(1897年)ほどだった。しかし、1901年に日本初の近代製鉄所である官営八幡製鐵所の建設地に選定され、以後はこの八幡製鐵所を軸に工業都市として急速に発展し、「鉄の町」と呼ばれるようになる。1917年に市制を施行して八幡市となった(旧五市中4番目)。 太平洋戦争中の1944年6月16日の八幡空襲では、アメリカ陸軍航空軍がB-29を初めて日本本土空襲に投入した。空襲は同年8月20日の空襲以降1年近くなかったが、終戦直前の1945年8月8日の八幡大空襲で大きな被害を受けた。翌8月9日にはアメリカ陸軍航空軍が隣接する小倉市への原子爆弾投下を予定していたが、八幡大空襲で発生した煙が流れ込むなどして小倉市上空が視界不良だったため長崎市への原子爆弾投下に変更したとされる。 製鉄所は戦後も稼働し続け、1949年(昭和24年)に昭和天皇の戦後巡幸が行われた際には、視察先の一つとなった[1]。 行政区域の変遷
人口の変遷
行政歴代市長
国の機関主な医療機関産業上で述べたように、官営八幡製鉄所およびその後身の日本製鐵八幡製鐵所に代表される重工業を主幹産業とした。戦後(1950年以降)はこの日本製鐵が解体され発足した八幡製鐵と黒崎窯業(現・黒崎播磨)、安川電機などが市内の最有力企業として地域経済を牽引した。なお八幡製鐵が合併により新日本製鐵となったのは北九州市発足後の1970年である。 (新日本製鐵(株)と住友金属工業(株)は2012年10月に統合し新日鉄住金(株)となり、さらに2019年4月には日本製鉄(株)に商号変更されている。) 戦前から1950年代にかけ、八幡市の中心地は中央町(当時は中央区という呼び方もされた)で、八幡製鐵所の東門があり、西鉄北九州線の枝光線との分岐点にもなっていたことから非常に栄えた。また八幡市に編入された黒崎(旧黒崎町)・折尾(旧折尾町)地区では商業が発達した。特に黒崎は1970年代初頭より一大商業地となり、北九州市の副都心と位置づけられた。 スポーツチーム
出身有名人※北九州市発足以前に出生した出身者。
脚注参考文献
関連項目
外部リンク |