千島 (通報艦)
千島(ちしま)は、日本海軍の水雷砲艦[2]、または通報艦[3]。艦名は千島列島 (または千島国[8]) に由来する[20][21]。 概要1886年(明治19年)12月上旬、フランスから日本へ回航中の巡洋艦「畝傍」が行方不明となり(喪失認定)、日本側は保険金で巡洋艦「千代田」(イギリス)を建造した[22]。フランス側が建造したのが本艦である。 「八重山」に続いて、日本海軍が建造した2番目の通報艦(当時の呼称は報知艦[3])になる[21]。 エミール・ベルタンが、自ら信奉する青年学派思想に基づいて[要出典]設計を行い、 水雷艇の駆逐任務も考えていた[19]。 また強力な魚雷兵装(発射管4門、魚雷10本の計画[19])を持ち、水雷砲艦とも称された[21]。 艤装面では艦首にバウスプリットがあり、巡航時の帆走を重視したフランス建造艦らしい特徴がある[23]。 フランスから日本へ回航中の1892年(明治25年)11月30日、瀬戸内海でイギリス商船と衝突して沈没[24][25]。国内問題および国際問題に発展した(千島艦事件)。 艦歴計画計画時の名称は第二報知艦[3]。 1886年 (明治19年) 9月、建造予定の通報艦2隻のうち、1隻の排水量を700トンに変更し、海外に注文することにした[26]。 1887年(明治20年)6月6日、日本海軍は建造予定の艦艇7隻について、艦名を内定(厳島、松島、橋立、八重山、千島、満珠、干珠)[3][27]。 1889年 (明治22年) 10月、フランスのロワール社と2,000,000フラン (兵器価格等は含まず[28]) で契約することを決定[29]、 11月11日に契約を締結した[7]。 建造1890年(明治23年)1月29日、「千島」はフランス、ロワール社サン・ナゼール造船所で起工[20]。 8月22日、佐世保鎮守府所管の第一種と定められる[5]。 同年11月26日、進水[20][4]。 1891年 (明治24年) 12月24日行われた速力試験では19.655ノット (3回の単純平均) しか出せず (計画は22ノット[10]) 、同日4回目の計測はボイラーの故障により中止になった[13]。 会社側は何度も試験出来ると主張したが[13]、 1892年 (明治25年) 3月に引き渡しの遅延 (契約での引き渡し期限は契約締結日から16カ月[30]の1891年3月10日) を含めた減額を555,800フランとして、「千島」の引き渡しを求め[31]、 最終的な支払は429,563.96フランの減額で合意した[32]。 1892年(明治25年)4月1日、竣工[20]。 回航・沈没同年4月18日、フランスを出港[33]。 アレクサンドリア[34]、 アデン[35]、 シンガポール[36] などを経由して、同年11月24日に長崎に到着した[37] (暴風雨のための避難[38]) 。 11月28日、「千島」は長崎から神戸に向けて出港[39]したが、 悪天候の為に一旦引き返し、29日未明に再度出港した[40]。 11月30日午前4時20分頃に愛媛県の興居島と睦月島の間で神戸から出港したP&O社所属の英商船「ラベンナ(Ravenna)」が「千島」中央部に衝突し、4時58分に「千島」は沈没した[41][42]。事故時の千島乗組員90名の内、74名が犠牲となった(生存者、千島艦長心得の鏑木誠大尉以下日本海軍15名、フランス人機関士1名)[43][44]。瀬戸内海所在の日本艦3隻(葛城、武蔵、筑波)等が救援に向かった[45][41]。 この事故は国際問題と国内問題に発展した[46][47]。 横浜の英国領事裁判所に提訴され日本側の実質勝訴だったが、上海の英国高等領事裁判所での第2審では敗訴した[48]。 後にイギリス枢密院に上訴して差し戻し判決が出されたため、最終的にイギリス政府の意向で1895年(明治28年)9月19日をもって和解となった(千島艦事件)[49]。 艦長脚注出典
参考文献
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