満州(まんしゅう[8]、旧仮名:まんしう)は、日本海軍の通報艦[13]。
艦名は現在の中国東北部の歴史的地名の満洲を由来とする[13][8]。
当時の地名では漢字の「洲」を用いたが、艦名は「州」を使用した[8]。
艦歴
1901年(明治34年)オーストリア帝国領トリエステのスタビリメント・テクニコ社サン・マルコ工場で建造された[14]
高速客船で旧ロシア帝国汽船「マニジューリヤ」(ロシア語: Маньчжурия、「満洲」のロシア語形、
日本側呼称は英語Manchuria[14]の日本語読み「マンチュリア」)。
ロシア東清鉄道の所有で主に大連、青島、上海市間を就航していた[8]。
1904年(明治37年)の日露戦争開戦当時、長崎で修理中だった[8]。開戦時に長崎にいたロシア船舶は国際慣習により解放する予定だったが[16]、放置されていたため滞在期限切れになると[要出典]「葛城」に接収され[8]、
船名は旧名をそのまま和訳した[13]「満州丸」と命名、
運用は大阪商船に委託され佐世保と前線間の連絡船として用いられた[8]。捕獲検定確定後には武装が施されて仮装巡洋艦となり[17]、日本海海戦において哨戒や掃討を担当している。
1906年(明治39年)に通報艦として日本海軍籍に入り、「満州」と改めて命名される。
主に中国方面の警備や測量などに従事したが、客船時代の豪華な設備はそのままに残されており、観艦式の供奉艦や、来賓や軍幹部、各国駐在武官などを搭乗させる特別任務によく用いられた[8]。
第一次世界大戦ではシンガポール方面への輸送任務の他に南洋諸島、青島方面の測量任務に就き、関東大震災の際は救助活動や相模湾の再測量を行っている[8]。
1925年(大正14年)10月3日、マリアナ海溝で水深9814.6mの錘測に成功し、この付近の海底が世界で最も深いことを突きとめた [18]。
1932年(昭和7年)に除籍され、翌年に標的として撃沈処分された[8]。
年表
艦長
※脚注なき限り『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。
- 西山保吉 中佐:1905年3月15日 - 6月14日
- 矢代由徳 大佐:不詳 - 1907年5月17日
- 大沢喜七郎 中佐:1907年5月17日 - 1908年2月20日
- 秀島七三郎 大佐:1908年2月20日 - 12月10日
- 松岡修蔵 中佐:1908年12月10日 - 1909年3月4日
- (兼)中島市太郎 大佐:1909年3月4日 - 7月30日
- 小黒秀夫 中佐:1909年7月30日 - 10月11日
- 川浪安勝 中佐:1909年10月11日 - 1911年4月1日
- 向井弥一 大佐:1911年5月23日 - 12月1日
- 奥田貞吉 大佐:1911年12月1日 - 1912年8月13日
- 堀輝房 大佐:1912年8月13日 - 12月1日
- 平田得三郎 大佐:1912年12月1日 - 1913年2月19日
- 三輪修三 大佐:1913年4月1日 - 5月24日
- 石川長恒 中佐:1913年5月24日 -
- 島内桓太 大佐:1914年12月1日 - 1915年2月1日
- 糸川成太郎 中佐:1915年2月1日[28] - 1916年5月23日
- 新納司 大佐:1916年5月23日 - 12月1日
- 関田駒吉 大佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日
- 井手元治 大佐:1917年12月1日 - 1918年11月10日
- 江口金馬 中佐:1918年11月10日 - 1919年11月3日
- 坂元貞二 中佐:1919年11月3日 - 1920年1月30日
- 松坂茂 大佐:1920年2月13日[29] - 8月12日[30]
- 三村俊夫 中佐:1920年8月12日[30] - 1921年11月20日[31]
- (心得)辻友輔 中佐:1921年11月20日[31] - 不詳
- 辻友輔 大佐:不詳 - 1922年12月1日[32]
- 大谷四郎 中佐:1922年12月1日 - 1923年12月1日
- 広瀬豊 大佐:1923年12月1日[33] - 1924年10月25日[34]
- 重松良一 中佐:1924年10月25日[34] - 1926年12月1日[35]
- 佐藤英夫 大佐:1926年12月1日[35] - 1928年3月15日[36]
- 竹原九一郎 中佐:1928年3月15日[36] - 12月10日
- 神田嘉穂 大佐:1928年12月10日[37] - 1929年9月30日[38]
- 難波常三郎 大佐:1929年9月30日[38] - 1930年12月16日
脚注
注釈
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1付表1-1「大正九年調艦艇要目一覧表 その一 軍艦」によると乗員169名だが、当時の定員は192名(#海軍制度沿革10-2(1972)p.639、大正9年8月1日内令第367号、二等海防艦定員表其三。士官13人、特務士官2人、准士官6人、下士34人、卒135人。)で196名に近い。
出典
参考文献
- アジア歴史資料センター
- 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻四の1』 明治百年史叢書 第175巻、原書房、1971年11月(原著1939年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の2』 明治百年史叢書 第183巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十一の2』 明治百年史叢書 第185巻、原書房、1972年5月(原著1941年)。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0386-9
- 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 31巻、朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1969年。
- 『官報』
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a:通報艦として計画、b:通報艦に類別 |
類別等級制定前 | | |
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水雷砲艦 | |
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新造艦 | |
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鹵獲艦 | |
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国旗は建造国 |
転用艦a |
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新造艦 |
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戦利艦 | |
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- a. 1942年7月1日までに除籍もしくは他艦種に類別変更
- b. 1931年5月30日等級廃止
- c. 1912年8月28日三等廃止、二等に類別換え
- d. 就役後他艦種に類別変更
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