竣工当時の「ポルタヴァ」
艦歴
発注
サンクトペテルブルク、ニュー・アドミラルティ海軍造船所
起工
1892年 5月1日
進水
1894年 11月6日
就役
1897年 竣工、1900年 6月就役。
改名
1905年 8月22日 、「丹後」と命名。
除籍
1916年 4月4日 [ 1]
性能諸元(()内は「丹後」のもの)
排水量
常備:11,500トン (10,960トン) 満載:11,400トン
全長
114.6m 112.5m(水線長)
全幅
21.3m(21.34m)
吃水
8.6m(7.77m)
機関
形式不明石炭専焼円缶 14基 (丹後:宮原式石炭専焼水管缶16基) +直立型三段膨脹式三気筒レシプロ機関 2基2軸推進
最大出力
竣工時:11,213hp 丹後:10,600hp
最大速力
竣工時:18.0ノット 丹後:16.2ノット
航続距離
竣工時:10ノットで3,500海里 (満載) 丹後:10ノット/10,000海里
燃料
竣工時:石炭:700トン(常備)、1,000トン(満載) 丹後:2,056トン
乗員
668名
兵装
竣工時: Pattern 1895 30.5cm(40口径)連装砲 2基 Pattern 1892 15.2cm(45口径)連装速射砲 4基&同単装速射砲4基オチキス 4.7cm(43.5口径)単装速射砲 12基オチキス 3.7cm(23口径)ガトリング機砲 28基 38.1cm水上魚雷発射管単装4門 45.7cm水中魚雷発射管単装2門 パラノフシキー 6.35cm(19口径)野砲2基機雷 50個 丹後: 30.5cm(40口径)連装砲2基 アームストロング 15.2cm(45口径)連装速射砲4基&同単装速射砲4基 アームストロング 7.6cm(40口径)単装速射砲10基オチキス 4.7cm(43.5口径)単装速射砲4基 45.7cm水上魚雷発射管単装2門
装甲
クルップ鋼 舷側:185〜368mm(水線部主装甲)、185〜305mm(主砲弾薬庫)、127mm(水線上部主装甲)、-mm(水線下隔壁) 主甲板:51mm(機関区・弾薬庫上面) 主砲塔:254mm(前盾・側盾)、51mm(天蓋) 主砲バーベット 部:254mm(甲板上部)、102mm(甲板下部) 副砲塔:127mm(前盾・側盾)、25.4mm(天蓋) 副砲バーベット部:127mm 司令塔:229mm(側盾)、-mm(天蓋)
丹後 (たんご)は、大日本帝国海軍 の戦艦 [ 2] [ 3] 。
元は、ロシア帝国海軍 が建造したペトロパブロフスク級戦艦 (ポルタヴァ級艦隊装甲艦)「ポルタワ 」[ 4] [ 6] 、「ポルターヴァ」[ 7] 、「ポルターワ」[ 8] (Полтава)。
旅順攻囲戦 で大破、着底し[ 9] [ 10] 、旅順要塞 降伏時に日本海軍によって捕獲され[ 11] [ 4] 、戦利艦 として「丹後 」と改名されてから再就役した[ 2] [ 12] 。艦名は丹後国 に由来する[ 11] 。
明治天皇 に奏聞した候補艦名に「讃岐」があった[ 13] 。
艦歴
「ポルターヴァ」時代
ポルタヴァ時代の武装・装甲配置を示した図。
サンクトペテルブルク のニュー・アドミラルティ造船所で建造[ 14] 。1892年2月建造開始[ 14] 。5月7日/5月19日[ 15] 起工[ 14] 。1894年10月25日/11月6日進水[ 14] 。1899年竣工[ 16] 。
1900年10月3日/10月15日に極東へて向け出発し、1901年3月30日/4月12日に旅順に到着した[ 16] 。
1904年1月27日/2月9日未明、「ポルターヴァ」などの艦艇が旅順港外に停泊していたところを日本の駆逐隊が襲撃し、戦艦「ツェサレーヴィチ 」、「レトヴィザン 」と巡洋艦1隻が被雷[ 17] 。次いで同日昼には日本海軍の第一戦隊(三笠、朝日、富士、八島、敷島、初瀬)、第二戦隊(出雲、吾妻、八雲、常盤、磐手)、第三戦隊(笠置、千歳、高砂、吉野)がロシア側と交戦した[ 18] 。この戦闘で「ポルターヴァ」は2発被弾[ 19] 、または4発被弾して2名が負傷[ 20] 、もしくは30cm砲弾1発が艦首に命中した[ 21] 。
2月27日/3月11日、戦艦「セヴァストーポリ 」と衝突[ 22] 。
3月31日/4月13日、日本の駆逐隊に攻撃された駆逐艦「ストラーシヌイ」救援のため戦艦「ペトロパヴロフスク 」や「ポルターヴァ」などが出動し、日本の第三戦隊(千歳、高砂、吉野、常盤、浅間)と交戦[ 23] 。そのあと、「ペトロパヴロフスク」と戦艦「ポベーダ 」が触雷し、「ペトロパヴロフスク」は沈没した[ 24] 。
6月10日/6月23日、「ポルターヴァ」を含むロシア艦隊は出港したが、日本艦隊と遭遇すると引き返した[ 25] 。この際、戦艦「セヴァストーポリ 」が触雷している[ 26] 。
㋄上旬[ 27] に地上の防衛強化のため艦隊から砲の一部を陸揚げすることが決まり、6月中旬[ 27] にかけて実行された[ 28] 。「ポルターヴァ」からは6インチ砲4門が陸揚げされた[ 29] 。
7月28日/8月10日、黄海海戦 に参加[ 30] 。死者12名負傷者43名を出した[ 30] 。
日本軍は黄海海戦の前ごろから砲台からの港内砲撃を開始しており、「ポルターヴァ」は8月5日/8月18日に4発被弾して前部煙突が破壊されるなどし、負傷者が5名出た[ 31] 。「ポルターヴァ」は9月21日、23日、24日/10月4日、6日、7日にも命中弾を受けた[ 32] 。また、9月18日/10月1日に28cm砲弾1発が命中したとも[ 21] 。一方、「ポルターヴァ」は旅順防衛部隊支援のため9月から11月の間に12インチ砲弾110発を発射した[ 30] 。
黄海海戦後は艦からの砲の取り外しがさらに進み、9月には「ポルターヴァ」は6インチ砲3門、47mm砲4門、37mm砲26門を欠く状態になった[ 33] 。
11月22日/12月5日に203高地 の左右の頂上が日本軍に占領されると、そこに観測所を設置した日本軍の砲撃で港内のロシア艦艇は撃沈されていく[ 34] 。11月22日/12月5日14時25分、11インチ砲弾1発が「ポルターヴァ」左舷に命中し、47mm砲の弾薬庫で炸裂してそこにあった弾薬包2100発を爆発させた[ 35] 。さらに火災による熱で隣室の12インチ砲弾にも引火し、14時55分ごろに大爆発を起こした[ 35] 。火災は艦尾が着底するまで鎮火せず、翌朝「ポルターヴァ」は完全に沈んだ[ 36] 。
「丹後」時代
大日本帝国海軍戦艦「丹後」となった本艦。復旧時に上部構造物が簡略化された。
1905年 (明治38年)1月1日、旅順要塞 降伏にともない、日本海軍に捕獲される[ 11] 。
5月29日、浮揚処理開始[ 37] [ 38] 。
起重機船 で砲身・砲塔を取り外すなど、作業を行う[ 39] 。7月21日、浮揚成功[ 40] [ 41] 。
8月22日、ポルタヴァは帝国軍艦籍に編入、丹後 と命名される[ 43] [ 2] 。一等戦艦に類別[ 44] [ 45] 。
8月24日、3隻(丹後、満州丸 、駆逐艦曙《初代》)は旅順港を出発、8月29日に舞鶴海軍工廠 に到着[ 37] [ 46] 。応急修理を受けたのち、10月12日に舞鶴を出発、20日に横須賀到着[ 47] 。
10月23日、東京湾で凱旋観艦式(明治天皇 御召艦浅間 、先導艦八重山 )が行われる[ 48] [ 49] 。元ロシア海軍艦艇(相模《ペレスウェート》 、丹後《ポルタワ》 、壱岐《インペラートル・ニコライ一世》 、沖島《ゲネラル・アプラクシン》 、見島《アドミラル・セニャーウィン》 )等も凱旋観艦式に参列した[ 47] [ 50] [ 49] 。
12月12日、日本海軍は艦艇類別等級表 を改定[ 51] 。戦艦の等級廃止にともない、日本海軍保有の9隻(富士 、敷島 、朝日 、三笠 、石見 、相模 、丹後 、肥前 、周防 )が『戦艦』に類別される[ 52] [ 3] 。
この折に海水に浸かったボイラーは国産の宮原式石炭専焼缶16基に換装され、それに伴って2本煙突も形状を変えた。前後のマスト 上部に付くアンテナ用ポールも十字型のクロスツリーへと変更された。武装面では主砲と副砲はロシア製からイギリスのアームストロング社製の物に換装し、戦訓から対水雷艇 迎撃用の「7.6cm(40口径)速射砲」を単装砲架で片舷5基ずつ計10基を追加し、艦首尾部の45.7cm水中魚雷発射管2基は全て撤去され、替わりに38.1cm水上魚雷発射管は使用する魚雷を大型の45.7cm魚雷に替えて使用した。
1912年 (大正元年)8月28日、日本海軍は艦艇類別等級表の改訂を実施[ 53] 。「丹後」は一等海防艦 (7000トン以上)に類別変更される[ 54] [ 55] [ 56] 。
第一次世界大戦 が勃発すると日本とロシアは同盟国になった。
1916年 (大正5年)4月4日 、日本海軍は3隻(相模、宗谷、丹後)を軍艦籍より除籍[ 57] 。艦艇類別等級表からも削除[ 58] [ 59] 。「丹後」はロシア海軍側に返還された[ 11] [ 4] 。返還後、元の艦名はガングート級戦艦 で使用されていたためにチェスマの海戦 (ロシア語版 、トルコ語版 、英語版 ) にちなんでチェスマ (Чесма チスマー )と改称されてウラジオストック艦隊に所属した。その後は白海 に移された。なお、同様の経緯で「相模 」もロシア側に返還されて「ペレスウェート」となるが、ヨーロッパへ回航中の同艦は地中海 で触雷、沈没した[ 60] 。
「チェスマ」時代
1917年 (大正7年)2月3日 、チェスマは白海艦隊に編入された。同年10月、乗員はソヴィエト軍に参加することを決定。
1918年 (大正8年)より始まったロシア内戦 中の3月に、連合軍がムルマンスクに到着した時、本艦は同地に在泊しており、そのまま連合軍に捕獲された。
本艦は座礁状態であったためにイギリスの判断でボルシェビキ40人を収容するハルク 兼刑務所として使用された。1919年 (大正9年)10月、イギリス軍が撤退した後、1920年(大正10年)4月24日、チェスマはボルシェビキの白海艦隊に所属。1921年(大正11年)6月16日に保管のためにアルハンゲリスクに移され、検査を受けたがイギリス軍により修理の限度を超えた損傷を受けたため1923年 (大正12年)に廃棄処分とされ、1924年(大正13年)7月3日に解役、その後アルハンゲリスクで解体された。
艦長
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
日本海軍
(兼)茶山豊也 大佐:1908年8月28日 - 9月15日
羽喰政次郎 大佐:1908年9月25日 - 11月5日
山縣文蔵 大佐:1909年4月17日 - 回航中
(兼)上村翁輔 大佐:1911年3月1日 - 4月1日
笠間直 大佐:1911年4月1日 - 11月1日
(兼)広瀬順太郎 大佐:1911年11月1日 - 12月1日
(兼)向井弥一 大佐:1911年12月1日 - 1912年6月29日
(兼)山崎米三郎 大佐:1912年6月29日 - 9月27日
(兼)松岡修蔵 大佐:1912年9月27日 - 1913年4月1日
(兼)水町元 大佐:1913年4月1日 - 12月1日
(兼)荒西鏡次郎 大佐:1913年12月1日 - 1914年4月17日
(兼)松岡修蔵 大佐:1914年4月17日 - 5月27日
(兼)秋沢芳馬 中佐:1914年5月27日 - 1914年8月18日
秋沢芳馬 中佐:1914年8月18日 - 1914年12月1日
(兼)本田親民 大佐:1914年12月1日 - 1916年2月17日
(兼)久保来復 大佐:1916年2月17日 - 1916年12月1日
ギャラリー
同型艦
脚注
^ 「軍艦丹後外一艦ヘ下付ノ勅諭ヲ還納ス p.3 」 アジア歴史資料センター Ref.A13100197200
^ a b c #達明治38年8月p .8『達第百十一號 戰利軍艦「ペレスウエート」外四隻左ノ通命名セラル 明治三十八年八月二十二日 海軍大臣男爵山本権兵衛|戰艦「ペレスウエート」 相摸/戰艦「ポルタワ」 丹後/一等巡洋艦「バヤーン」 阿蘇/二等巡洋艦「ワリヤーグ」 宗谷/二等巡洋艦「パルラダ」 津輕』
^ a b #達明治38年12月pp .8-9『達第百八十二號 艦艇類別等級別表ノ通定ム 明治三十八年十二月十二日 海軍大臣男爵 山本権兵衛(別表)|軍艦|戰艦| |富士、敷島、朝日、三笠、石見、相模、丹後、肥前、周防、』
^ a b c #福井戦艦物語壱 108頁『◇丹後―ポルタワ』
^ 小野圭司. “明治末期の軍事支出と財政・金融-戦時・戦後財政と転位効果の考察- ”. 防衛研究所. 2023年6月11日 閲覧。
^ ピョートル・オレンダー、平田光夫(訳)『日露海戦1905 Vol.1 旅順編』大日本絵画、2011年、ISBN 978-4-499-23036-0 、13ページ
^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』18ページ
^ #日露戦役海軍写真集(3) コマ46(原本38ページ)『旅順口内の爆沈艦ボルタワ主砲臺よりレトウ井ザンを望む』
^ #東郷全集2巻 コマ23(原本9頁)『旅順港に捕獲せられたる露艦、右よりペレスウエート、ポルタワ、レトウヰザン、ポビエーダ、パルラダの諸艦(三十八年四月八日撮影)』
^ a b c d #幕末以降帝国軍艦写真と史実 コマ67(原本101頁)『丹後(たんご) 艦種 一等戰艦 二檣(戰闘檣あり) 艦名考 國名なり、丹後國に採る。艦歴 舊露國軍艦、原名「ボルタワ」。明治31年進水、露國聖彼得堡造船所にて建造。日露戰役中露國太平洋艦隊として明治39年8月10日黄海々戰に参加、後ち旅順港打ちに於て破壊沈没。同38年1月1日(旅順の露軍降伏開城の日)我が海軍之が収容引揚に着手、同年8月22日帝國軍艦と定め「丹後」と命名、同年12月戰艦の等級を廢せらる。大正元年一等海防艦に編入、同年3年乃至9年戰役(日獨)從軍:同3年8月第二艦隊第二戰隊に属し青島戰に参加(艦長大佐秋澤芳馬)、同5年4月5日露國政府へ譲渡す。 ―要目― 長367呎/幅69呎/吃水25.6呎/排水量10,960噸/機關 直立三汽筩三聯成汽機2基、宮原式罐/馬力11,000/速力16/乗組人員750/船材 鋼(甲帶406粍)/兵装 12吋砲 4/6吋砲 12/3吋砲 10/47粍砲 4/發射管 4/起工 明治25/進水 同27-11-6/竣工 同31/建造所 露國セント・ピータースブルグ』
^ #海軍制度沿革(巻8、1940) コマ25『戰利艦船處分一覽表|軍艦丹後|ポルタワ|同(戰艦)|同(排水量)一〇,九六〇|三十八年七月二十壱日|海軍ニテ使用|一〇,一八〇,〇〇〇|}旅順ニ沈没ノモノ』
^ 明治38年8月10日付 海軍大臣官房発行 官房第3040号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C06091630000 で閲覧可能。
^ a b c d Stephen McLaughlin, Russian & Soviet Battleships , p. 84
^ ユリウス暦 /グレゴリオ暦
^ a b Stephen McLaughlin, Russian & Soviet Battleships , p. 90
^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』18-22ページ
^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』5-6、26-28ページ
^ Robert Forczyk, Russian Battleship vs Japanese Battleship , p. 43
^ ピョートル・オレンダー『日露海戦1905 旅順編』27ページ
^ a b Edward C. Fisher Jr., "BATTLESHIPS of the IMPERIAL RUSSIAN NAVY: Part 2", p. 277
^ Edward C. Fisher Jr., "BATTLESHIPS of the IMPERIAL RUSSIAN NAVY: Part 2", p. 278. 同記事では1月27日/3月11日となっているが、前後の内容及びユリウス暦1月27日はグレゴリオ暦2月9日であることから2月27日が正しいものと判断した。
^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』71-75ページ
^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』77-78、80ページ
^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』123-125、127-129ページ
^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』130ページ
^ a b ここはグレゴリオ暦
^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』102-104ページ
^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』104ページ
^ a b c Stephen McLaughlin, Russian & Soviet Battleships , p. 91
^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』236-238ページ
^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』241ページ
^ Stephen McLaughlin, Russian & Soviet Battleships , p. 163
^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』247、250ページ
^ a b 真鍋重忠『日露旅順海戦史』250ページ
^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』250-251ページ
^ a b #収容艦船概要p .2『二、戰艦「ポルターワ」(排水量一〇,九六〇噸、三十八年五月二十九日引揚箸手、同年七月二十一日浮揚、同年八月二十二日丹後ト命名セラル同月二十四日旅順口發、同月二十九日舞鶴箸、囘航委員長ハ海軍大佐小田喜代藏、護衛艦ハ假装巡洋艦満州丸、通信艦ハ曙ナリ)』
^ #丹後引揚及回航p .4『第二節 引揚作業』
^ #日露戦役海軍写真集(4) コマ34(原本24頁)『旅順戰利戰艦ポルタワ十二尹砲の陸揚/(一)はポルタワ(後に丹後と改名)の前部より見たるもの、(二)は其の引揚準備として、先づ十二尹砲塔砲を取り外し陸揚する所にて、之が爲め特に大連より回航せる六十噸の浮起重機船を用ゆる口径なり、因に言ふ十二尹砲一門の重量は約五十噸なり。』
^ #丹後引揚及回航pp .5-6
^ 明治38年7月24日官報第6619号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ9 『○戰利艦ノ浮揚 旅順口港内戰利艦ノ浮揚ニ關シ一昨二十二日接手シタル旅順口鎮守府司令長官柴山矢八ノ報告左ノ如シ(海軍省)戰艦「ポルターワ」(排水量一万九百六十噸)ハ本日(二十一日)早朝ヨリ排水ヲ始メ經過頗ル良好ニシテ午後三時全ク浮上セリ』
^ #海軍制度沿革(巻8、1940) コマ199『◎戰利軍艦相摸丹後阿蘇宗谷津輕命名ノ件 明治三十八年八月二十二日(達一一一)』
^ #海軍制度沿革(巻8、1940) コマ52『◎明治三十八年八月二十七日(達一一四)軍艦及水雷艇類別等級表中戰艦ノ欄一等ノ下「石見」ノ次ニ「相摸、丹後」ヲ、巡洋艦ノ欄一等ノ下「日進」ノ次ニ「阿蘇」ヲ、同二等ノ下「千歳」ノ次ニ「津輕、宗谷」ヲ加フ』
^ #達明治38年8月p .10『達第百四十四號 軍艦及水雷艇類別等級表中戰艦ノ欄一等ノ下「石見」ノ次ニ「相摸、丹後」ヲ、巡洋艦ノ欄一等ノ下「日進」ノ次ニ「阿蘇」ヲ、同二等ノ下「千歳」ノ次ニ「津輕、宗谷」ヲ加フ 明治三十八年八月二十七日 海軍大臣男爵 山本権兵衛』
^ #丹後引揚及回航pp .10-11『第四節 内地回航』
^ a b #丹後引揚及回航pp .13-14『第五節 凱旋觀艦式参列』
^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p .240『明治三十八年凱旋観艦式艦艇配置圖』
^ a b #福井戦艦物語壱 100-102頁『日本海軍を襲った"パニック"』
^ #戦役外患篇 コマ259-261(原本484-488ページ)『大觀艦式(明治三十八年珠月二十五日報知新聞)』
^ #達明治38年12月pp .6-7『達第百八十一號 艦艇類別標準別表ノ通改メラル 明治三十八年十二月十二日 海軍大臣男爵 山本権兵衛』
^ #海軍制度沿革(巻8、1940) コマ53-54『◎艦艇類別等級 明治三十八年十二月十二日(達一八二)』
^ #達大正1年8月p .32『達第十一號 艦艇類別標準別表ノ通改正セラル 大正元年八月二十八日 海軍大臣男爵 齋藤實』
^ #海軍制度沿革(巻8、1940) コマ56-57『◎艦艇類別等級 大正元年八月二十八日(達一二)艦艇類別等級別表ノ通改正ス』
^ #達大正1年8月pp .33-34『達第十二號 艦艇類別標準別表ノ通改正ス 大正元年八月二十八日 海軍大臣男爵 齋藤實(別表)|軍艦|海防艦|一等|壹岐、丹後、富士、石見、相模、周防』
^ #帝国最新軍艦帖、大正1年 コマ72『一等海防艦 丹後』
^ #達大正5年4月p .36『達第六十四號 横須賀鎮守府在籍 軍艦 相模 軍艦 宗谷|呉鎮守府在籍 軍艦 丹後 右帝國軍艦籍ヨリ除カル 大正五年四月四日 海軍大臣 加藤友三郎』
^ #海軍制度沿革(巻8、1940) コマ58『大正五年四月四日(達六五)艦艇類別等級別表中軍艦ノ欄内「相模、」「宗谷、」「丹後、」ヲ削ル』
^ #達大正5年4月p .36『達第六十五號 艦艇類別等級別表中軍艦ノ欄内「相模、」「宗谷、」「丹後、」ヲ削ル 大正五年四月四日 海軍大臣 加藤友三郎』
^ #福井戦艦物語壱 108-109頁『◇相模―ペレスウェート』
^ #福井世界戦艦 303-304頁『▽ペトロパウロウスク(Petropavlovsk)』
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参考文献
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『官報 』
Stephen McLaughlin, Russian & Soviet Battleships , Naval Institute Press, 2003, ISBN 1-55750-481-4
Edward C. Fisher Jr., "BATTLESHIPS of the IMPERIAL RUSSIAN NAVY: Part 2 ", Warship International, Vol. 5, No. 4 (Fall, 1968), pp. 270-284
アジア歴史資料センター(公式) (防衛省防衛研究所)
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『第8号 「ポルターワ」破損箇所詳細図((A)より(m)に至る弾痕図14枚)』。Ref.C05110198800。
『2番航(ポルタワ)破損箇所』。Ref.C09050621100。
『第3号 旅順口港内沈没戦利軍艦破損箇所詳細図(明治38年10月19日旅順口海軍工作廠より海軍軍令部に送付せるものなり)/阿蘇、津軽、周防、肥前、丹後、相模』。Ref.C05110198300。
『第3編 戦利艦船の収容引揚及ひ回航/第1章 収容艦船の概要』。Ref.C05110196200。
『第3編 戦利艦船の収容引揚及ひ回航/第4章 相模(元「ペレスウエート」)の引揚及ひ回航』。Ref.C05110196500。
『第3編 戦利艦船の収容引揚及ひ回航/第5章 丹後(元「ポルターワ」)の引揚及ひ回航』。Ref.C05110196600。
『明治38年 公文備考 巻10艦船1/進水、命名、艦船籍、類別、等級』。Ref.C06091630000。
『海戦史第6部巻之13(下)戦利艦(2)』。Ref.C09050733500。
『明治38年 達 完/8月』。Ref.C12070053200。
『明治38年 達 完/12月』。Ref.C12070053600。
『大正元年 達 完/8月』。Ref.C12070064400。
『大正5年 達 完/4月』。Ref.C12070070600。
関連項目
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丹後 (戦艦) に関連するメディアがあります。
国旗は建造国 転用艦a
新造艦
戦利艦
a. 1942年7月1日までに除籍もしくは他艦種に類別変更
b. 1931年5月30日等級廃止
c. 1912年8月28日三等廃止、二等に類別換え
d. 就役後他艦種に類別変更