司馬 伷(しば ちゅう)は、中国三国時代の魏から西晋にかけての武将。字は子将。河内郡温県孝敬里の人[1]。司馬懿の第4子。生母は伏貴妃。司馬亮の同母弟。司馬師・司馬昭の異母弟。司馬京・司馬駿の同母兄。司馬榦・司馬肜・司馬倫の異母兄。妻は諸葛誕の娘(諸葛太妃)。諡号は武王。
生涯
若年から才能と名声を有し、正始年間初めに南安亭侯に封じられた。官歴は寧朔将軍から始まり、鄴城を監督し、治績を高く評価された。
甘露5年(260年)5月、魏の皇帝曹髦が司馬昭排斥のために挙兵した(甘露の変)。屯騎校尉の官にあった司馬伷はこれを迎撃したが、曹髦の側近に一喝されると、軍勢は離散してしまった[2]。
散騎常侍から、右将軍・監兗州諸軍事・兗州刺史を歴任。咸熙元年(264年)[3]に五等爵が置かれると、南皮伯・征虜将軍・仮節となった。
泰始元年(265年)12月[4]、司馬炎が晋の皇帝として即位すると東莞郡王に封じられ、食邑10600戸を領した。泰始4年(268年)2月[4]には尚書右僕射・撫軍将軍に遷った。
泰始5年(269年)2月[4]、地方に出て鎮東大将軍・仮節・都督徐州諸軍事となる。下邳郡を統御し、将兵に最大限の力を発揮させ、呉から恐れられた。また、『晋書』石苞伝によれば、都督揚州諸軍事の石苞が謀反の疑いで都に召還された時、下邳から寿春へ向かい、反乱を警戒する任に当たった[5]。
咸寧3年(277年)8月[4]、開府儀同三司・琅邪王となった。
咸寧5年(279年)11月[4]、呉討伐のため兵数万を率い、涂中へ進軍した。呉帝孫皓は降伏の際、司馬伷の元へ書簡と印綬を送った(呉の滅亡)。詔勅によれば「長史の王恒を進軍させて長江を渡らせ、賊の辺境軍を破った。都督の蔡機を捕縛し、殺害・降伏させた者は5万余を数えた」等の功績を挙げた。位は大将軍[6]にまで昇ったが驕ることなく恭倹に努めたため、配下は力を尽くし、民衆も心服した。
太康4年(283年)5月1日、57歳で死去。生母の陵に葬られること、4人の子に所領を分割して相続させることを生前に願い、許された。武王と諡され、嫡子の司馬覲が後を継いだ。
司馬伷自身は晋朝に忠実であったが、早世した司馬覲以外の子の司馬澹・司馬繇・司馬漼は八王の乱に関与し、晋朝を乱す一因を成した。司馬繇は永安元年(304年)に司馬穎に殺害され、司馬澹は永嘉5年(311年)の石勒の攻撃により死亡した。司馬覲の子で琅邪国を継承していた司馬睿は江南に逃れ、東晋を建国して帝位に即いた(元帝)。
宗室
- 『晋書』本紀巻1~10、列伝巻7・8・29・44・68・69による
- 太字は皇帝(追贈含む)、数字は即位順。
- 灰網掛けは八王の乱にて殺害された人物。
妻
子
出典
脚注
- ^ 『晋書』高祖宣帝紀記載、父の司馬懿の本籍地。
- ^ 陳寿『三国志』魏書 高貴郷公紀注『漢晋春秋』
- ^ 『晋書』太祖文帝紀
- ^ a b c d e 『晋書』世祖武帝紀
- ^ ただし『三国志』呉書丁奉伝によれば、石苞召還は泰始4年。『晋書』武帝紀の司馬伷の官歴とは時系列が合わない。
- ^ 『晋書』武帝紀では、太康3年(282年)12月に撫軍大将軍になったとし、次の記述では大将軍として死去したことになっている。また『晋書』職官志では太康元年(280年)に大将軍になったとし、周家禄『晋書校勘記』はその記述を太康3年が正と指摘する。