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艦歴
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計画 |
昭和17年度計画(マル急計画)[1]
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起工 |
1943年1月16日[1]
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進水 |
1943年9月13日[1]
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就役 |
1944年1月31日[1]
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その後 |
1944年6月17日空爆により沈没[1]
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亡失認定 |
1944年7月12日[1]
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除籍 |
1944年8月10日[1]
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性能諸元
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排水量 |
基準:525トン 常備:601トン 水中:782トン
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全長 |
60.90m
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全幅 |
6.00m
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吃水 |
3.51m
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機関 |
艦本式24号6型ディーゼル2基2軸 水上:1,000馬力 水中:760馬力
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電池 |
1号15型120個[2]
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速力 |
水上:14.2kt 水中:8.0kt
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航続距離 |
水上:12ktで3,500海里 水中:3ktで60海里
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燃料 |
重油:50トン
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乗員 |
38名
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兵装 |
25mm機銃連装1基2挺 魚雷発射管 艦首4門 53cm魚雷8本
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備考 |
安全潜航深度:75m
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呂号第百十七潜水艦(ろごうだいひゃくじゅうしちせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。呂百型潜水艦(小型)の18番艦。
艦歴
1942年(昭和17年)の昭和17年度計画(マル急計画)[1]により、1943年(昭和18年)1月16日、川崎重工業泉州造船所[3]で起工。1943年9月13日進水。1944年(昭和19年)1月31日に竣工し、二等潜水艦に類別[1]。同日、横須賀鎮守府籍となり[4]、訓練部隊である第六艦隊第11潜水戦隊に編入された。
3月31日、呂117はパラオ大空襲により来襲した米機動部隊の迎撃のために出撃。4月13日、呉に到着[5]。5月14日、第7潜水戦隊第51潜水隊に編入[4]。
15日、呂117は呉を出港し、24日にサイパンに到着[5]。26日にサイパンを出港し、31日にトラックに到着[5]。6月4日、トラックを出港し、ニューアイルランド北方沖の散開線に配備された。14日、グアム南方沖に移動。16日、テニアン島南東沖に移動するよう命令をうけるが[5]、この時に命令を受け取った反応を最後に消息不明[1][5]。
17日、サイパン南東沖でブラウン基地所属の米対潜哨戒機PB4Y-1 リベレーターが浮上航走中の潜水艦を発見。0338、哨戒機は空爆を行い、潜水艦を撃沈した[1][5]。これが呂117の最期の瞬間であり、艦長の榎本泰夫大尉以下乗員55名全員戦死[6]。沈没地点はサイパン南東350浬地点付近、北緯11度05分 東経150度31分 / 北緯11.083度 東経150.517度 / 11.083; 150.517。
7月12日、サイパン付近で亡失と認定され、8月10日に除籍された。
歴代艦長
艤装員長
艦長
- 榎本泰夫 大尉:1944年1月31日 - 6月17日戦死[6]
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k 『日本海軍史』第7巻、380頁。
- ^ 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』73頁。
- ^ 『写真日本海軍全艦艇史』資料篇「主要艦艇艦歴表」18頁。
- ^ a b 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』98頁。
- ^ a b c d e f 『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』163頁。
- ^ a b 『艦長たちの軍艦史』461頁、『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』163頁。
参考文献
- 雑誌「丸」編集部『ハンディ判 日本海軍艦艇写真集20巻』潜水艦伊号・呂号・波号・特殊潜航艇他、光人社、1998年。
- 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
- 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9