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艦歴
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計画 |
昭和17年度計画(マル急計画)[1]
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起工 |
1942年8月20日[1]
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進水 |
1943年1月26日[1]
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就役 |
1943年7月19日[1]
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その後 |
1944年6月9日爆雷により沈没[1]
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亡失認定 |
1944年7月12日[1]
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除籍 |
1944年8月10日[1]
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性能諸元
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排水量 |
基準:525トン 常備:601トン 水中:782トン
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全長 |
60.90m
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全幅 |
6.00m
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吃水 |
3.51m
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機関 |
艦本式24号6型ディーゼル2基2軸 水上:1,000馬力 水中:760馬力
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電池 |
1号15型120個[2]
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速力 |
水上:14.2kt 水中:8.0kt
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航続距離 |
水上:12ktで3,500海里 水中:3ktで60海里
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燃料 |
重油:50トン
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乗員 |
38名
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兵装 |
25mm機銃連装1基2挺 魚雷発射管 艦首4門 53cm魚雷8本
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備考 |
安全潜航深度:75m
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呂号第百十一潜水艦(ろごうだいひゃくじゅういちせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。呂百型潜水艦(小型)の12番艦。
艦歴
1942年(昭和17年)の昭和17年度計画(マル急計画)[1]により、1942年8月20日、川崎重工業神戸造船所[3]で起工。1943年(昭和18年)1月26日進水。1943年7月19日に竣工し、二等潜水艦に類別[1]。同日、佐世保鎮守府籍となり[4]、訓練部隊である第一艦隊第11潜水戦隊に編入された。
10月31日、第六艦隊第8潜水戦隊第30潜水隊、南西方面部隊潜水部隊に編入[4][5]。
同日、呂111は呉を出港。11月16日にシンガポールに寄港した後、23日にペナンに到着。12月6日、ペナンを出港し、ベンガル湾に進出。[5]。23日、北緯11度11分 東経80度11分 / 北緯11.183度 東経80.183度 / 11.183; 80.183のマドラス南東沖で、スウォンジーからカルカッタに向かっていた12隻の船から編成されたJC30船団を攻撃。150トンの爆薬と1,983トンの一般貨物を輸送中の英貨物船ペシャワー(Peshawar、7,934トン)に魚雷1本が命中。2時間後に同船は沈没した[6][5]。29日、ペナンに到着[5]。
1944年(昭和19年)1月7日、呂111はペナンを出港し、セイロン島東方沖に進出。10日、エレファント岬付近に磁気機雷10個を敷設[5]。その後ペナンに戻った。
2月1日、呂111はペナンを出港し、セイロン島周辺海域での機雷敷設任務に従事。23日、ペナンに到着。
3月7日、呂111は魚雷艇第451号魚雷艇、第455号魚雷艇の護衛を受けてペナンを出港。出港後に2隻と別れ、カルカッタ沖に進出。16日、北緯20度54分 東経89度36分 / 北緯20.900度 東経89.600度 / 20.900; 89.600のベンガル湾で、カルカッタからチッタゴンに向かっていたHC44船団を発見し、雷撃。魚雷は印貨物船エルマデマ(Elmadima、3,962トン)に命中し、同船は船体が二つに分断されて沈没した[6][5]。25日、ペナンに到着。同日、第30潜水隊の解隊に伴い、第7潜水戦隊第51潜水隊に編入された。
28日、呂111はペナンを出港し、4月1日に佐世保に到着して整備を受ける[5]。
5月22日、呂111は佐世保を出港し、31日にトラックに到着。6月4日、アドミラルティ諸島北方沖に進出するためトラックを出港。6月7日、トラック南方の散開線を航行中との報告を最後に消息不明となる[1]。
アメリカ側記録によると、6月11日、アドミラルティ諸島北方沖で米護衛空母ホガット・ベイ(USS Hoggatt Bay, CVE-75)搭載のFM-2 ワイルドキャットが海上に漂う重油の帯を発見[7]。ホガット・ベイを護衛していた米駆逐艦テイラー(USS Taylor, DD-468)が調査に向かう。まもなくテイラーは潜航中の潜水艦をソナー探知。爆雷を投下した。投下後、テイラーは潜水艦を探知しやすくするため停止。1541、先ほどの爆雷攻撃によりたまらず浮上してきた潜水艦を、前方2200mの距離で発見。テイラーは主砲と機銃により攻撃を行い、主砲弾5発、機銃弾多数が命中するのを確認した。1546、潜水艦は艦尾から沈没していった。テイラーは浮かび上がってきた重油の帯の上から爆雷を投下し、1558に2回の大爆発音を聴取した[8][1][5]。これが呂111の最期の瞬間であり、艦長の中村直三大尉以下乗員54名全員戦死[9]。沈没地点はカビエン北方沖、北緯00度26分 東経149度16分 / 北緯0.433度 東経149.267度 / 0.433; 149.267。
7月12日、サイパン方面で亡失と認定され、8月10日に除籍された。
撃沈総数は2隻で、撃沈トン数は11,896トンである。
歴代艦長
艤装員長
艦長
- 中村直三 大尉:1943年7月19日 - 1944年6月11日戦死[9]
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k 『日本海軍史』第7巻、378-379頁。
- ^ 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』73頁。
- ^ 『写真日本海軍全艦艇史』資料篇「主要艦艇艦歴表」18頁。
- ^ a b 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』98頁。
- ^ a b c d e f g h 『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』162頁。
- ^ a b RO-111
- ^ 木俣, 628ページ
- ^ 木俣, 629ページ
- ^ a b 『艦長たちの軍艦史』459-460頁、『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』162頁。
参考文献
- 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年。
- 雑誌「丸」編集部『ハンディ判 日本海軍艦艇写真集20巻』潜水艦伊号・呂号・波号・特殊潜航艇他、光人社、1998年。
- 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
- 木俣滋郎『日本潜水艦戦史』図書出版社、1993年、ISBN 4-8099-0178-5
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9