園山 俊二(そのやま しゅんじ、1935年〈昭和10年〉4月23日 - 1993年〈平成5年〉1月20日[1])は、日本の漫画家。血液型B型[1]。
略歴
島根県松江市外中原町生まれ[1]。島根大学教育学部附属小学校、同附属中学校、島根県立松江高等学校(現・島根県立松江北高等学校)を経て[2]、早稲田大学商学部卒業。
早稲田大学在学中、英文科の講師三浦修や、同級生のしとうきねおらとともに早稲田大学漫画研究会を創設[1][3]するも、結核の療養のため1年休学。復学後に漫研に復帰し、後輩の福地泡介、東海林さだおと出会う。園山・福地・東海林はのちに相次いでプロとなり、3人が出揃った1960年代後半当時の学生運動になぞらえて「漫画界の三派全学連」と称された[3]。
在学中の1958年、学内での展覧会を通じて知己を得ていた毎日小学生新聞の編集長・原本秀雄にスカウトされ[3][4]、同紙で『がんばれゴンベ』を連載開始し、プロデビュー。元は数か月だけ連載する予定だったが、35年にわたる長期連載となった[3]。
新聞連載のかたわら、大学を卒業。しとうの世話で広告代理店に就職するも、入社当日の正午、食事に外出したまま会社に戻らず、そのまま辞職。「自分は勤め人にそぐわない性格だと判断した[5]」「食うのにつらくても漫画一本で生きた方がよい[3]」と思ったという。以降専業の漫画家として、児童漫画および大人漫画の連載作品を多数発表する。1961年、寺田ヒロオの紹介で、第2次新漫画党に参加。トキワ荘の漫画家たちと交流を深める[3][6]。
1989年11月に手術のため入院(著書では「肝臓にできたコワイモノの除去」と説明[7])。その後入退院を繰り返す。1992年7月には、長期の入院・加療のため多くの連載を中断・終了する。『ペエスケ』を長期連載していた同年12月17日付の『朝日新聞』[8]等では、「ぎっくり腰の治療」と公表していたが、実際は肝臓の病状の進行であった。当時の園山は見舞客に「肝硬変」あるいは「前癌症状」と説明していたが、交友のあった畑正憲は追悼コメントにおいて、実際の園山の病が肝臓癌であったことを明かしている[9]。
1993年1月20日死去。57歳没。「メソメソシルナ 世の中グワンバレ」という文面の遺書を残したほか、病床でペエスケ、ヒロコ、平太、ガタピシなど『ペエスケ』の主要キャラクターをひとりひとり描いて別れを告げたという[要出典]。翌1月21日付の『朝日新聞』朝刊には、園山が死の直前に書いた動物の絵と、東海林さだおの追悼文からなる特集が1ページ半にわたり掲載された。
受賞歴
作風・人物
- 小学館『デジタル大辞泉』においては、「飄々としたタッチでほのぼのとした日常を描く」と評されている[10]。東海林さだおは「白い画用紙のまん中に、スーッと一本、鉛筆で横に線を引くと、すでにそれは大平原と空を分かつ地平線なのであった」「それが園山さんの代表作『ギャートルズ』なのだった」と園山のシンプルな描線による画風を評した[11]。
- ユーモラスな擬音を多く用いている。しっかりと握って離さない状況を示す「シッカ」など。
- メスのカエルに乳房を描くなど、動物に対する強い擬人化表現が見られる。
- 愛称は「おんちょ」。音痴であったことから[12]。
- 趣味は麻雀。アニメ版の「はじめ人間ギャートルズ」でも父ちゃんが4人で麻雀をする描写を入れたくらいだった(第23回「クルクルマワルラーの巻」)。
- 1982年に日本自然保護協会の理事に就任。宍道湖の淡水化計画に反対する活動を行った[13]。
主な作品
漫画
- 通算連載回数は9775回。1980年に東京12チャンネルでテレビアニメ化。
絵本
イラスト
- レコードジャケット
いずれもコンパクト盤
園山俊二を演じた人物
脚注
外部リンク