土佐 広周(とさ ひろちか/ひろかね、生没年不詳)は、室町時代中期に活躍した土佐派の画家である。初名は光持又は具持、法名は経増。官位は従五位上・弾正忠。
経歴・人物
土佐行広の長男[1]として生まれる。幼年期より父から大和絵を学ぶ。経歴についてはほとんど不明だが、『親長卿記』により、永享11年(1439年)から明応元年(1492年)の存命が確認されている。主に宮廷関係の大和絵を制作し、永享11年(1439年)には後小松上皇の7回忌における法要の本尊の制作にも携わった。本尊製作の褒賞により丹波三箇北荘内(現在の兵庫県丹波篠山市)に自身の私有地を与えられ、長禄3年(1459年)には近江国金勝寺領を[2]与えられる。応永2年(1438年)ころには室町幕府や後花園上皇に仕え、以後将軍や皇室に献上する絵画を数多く制作した。後に肖像画だけでなく仏画の制作にも携わった。晩年には土佐行定と共に『明恵上人絵巻』を共作したとされている。なお、広周の作風は平明なものであった。
従五位上に叙せられ、弾正忠[2]・土佐守に任ぜられた。
主な作品
代表的な作品
その他の作品
※このうち上記の仏画2作品は皇室に献上されたものであり、宮廷付の絵師に任命されたとされているが、不明である。この他にも、後の土佐光起により『花鳥図屏風』が広周の作品だと提言しているが、確証はない。
脚注
参考文献
外部リンク