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この項目では、日本の皇室について説明しています。諸外国における国王や皇帝とその一族の総称については「王室」をご覧ください。 |
皇室(こうしつ、英: Imperial House of Japan)は、日本の天皇およびその一族の総称。
概要
皇室の身位には日本国憲法および皇室典範(昭和22年法律第3号)に定める天皇、皇室典範第5条に定める、天皇(男性)の配偶者である皇后、先代の天皇の未亡人である皇太后、先々代の天皇の未亡人である太皇太后、また、皇太子(皇太孫)およびその配偶者である皇太子妃(皇太孫妃)(皇嗣および皇嗣妃)、皇族男子たる親王、王、さらには生まれながらの皇族女子である内親王、女王がある。親王妃、王妃は親王、王の配偶者となることをもって、皇族とされる。皇家(こうか)とも呼ぶ。また、天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)に定める、退位した天皇である上皇およびその配偶者である上皇后がある。
かつては宮室(きゅうしつ)とも呼ばれ、戦前(大日本帝国憲法・旧皇室典範施行下)においては、帝室(ていしつ)とも呼ばれていた。
一般人(皇室に嫁ぐのに国籍条項はない。外国籍の女性と結婚した場合日本国籍を有しない皇族が誕生する可能性あり)の女性は、皇族男子との婚姻により皇族になることができる。また、15歳以上の内親王、王、女王はその意思により、皇太子、皇太孫を除く親王、内親王、王、女王は、その意思によるほかにやむをえない特別の事由があるとき、皇室会議の議決を経て皇族の身分を離脱できる(皇籍離脱)。なお、皇族女子は天皇および皇族以外の男性と婚姻したとき皇族の身分を離れる(皇籍離脱のうち、いわゆる臣籍降嫁)。
東洋史学者岡田英弘によると、712年に完成した日本最古の史書『古事記』および、720年に完成した日本最古の官撰書『日本書紀』では、「高天原」より日向の高千穂山に下った(天孫降臨)太陽の女神天照大御神の孫邇邇芸命(天孫)の曽孫の神武天皇を初代とする一つの皇統が、一貫して日本列島を統治し続けてきたとされている[1]。『百科事典マイペディア』によると、神武天皇は「もとより史実ではない」としているが[2]、『国史大辞典』では神武天皇の「史的実在は、これを確認することも困難であるが、これを否認することも、より以上に困難なのである」としており[3]、天照大御神や初期天皇の実在性については古くより議論がある。また、皇統が分裂して、二系統が交互に皇位に就いた「両統迭立」[4]、皇統が分裂抗争した「南北朝時代」という語が存在している[5]。『ブリタニカ国際大百科事典』によれば、文献に「天皇」の文字が現れたのは7世紀である[6]。
範囲
狭義には天皇・内廷皇族のみを、広義には天皇とその近親である皇族を指すが、皇室の範囲は時期によって異なる。近世では傍系の4親王家(伏見宮、有栖川宮、閑院宮、桂宮)、近代以降では11宮家(旧宮家)を含んでいた。終戦以降(1947年以降)は、明治天皇の男系男子とその配偶者、未婚の男系女子の範囲内である。
一般国民との相違点
皇室の構成員である天皇・上皇および皇族も、憲法第10条に規定された日本国籍を有する「日本国民」である[7]。天皇については、「日本国籍を有している」という前提で、天皇が「主権者としての国民」であるか否かが論じられ、憲法論の皇統譜についての箇所に「日本国籍を有する者でも戸籍に記載されない唯一の例外に天皇および皇族がある」と記載されている[8]。皇族については、皇室典範その他の法律により若干の制限はあるものの一般の国民との差異は本来大きいものではない。皇族の参政権は、皇族が戸籍を有しない為(詳細後述)、公職選挙法付則により当分の間停止されているだけである。しかし、実態として皇族の権利や自由は大きく制約されている。これは、「『皇族という特別な地位にあり、天皇と同じように制限されるべきだ』という考え方が市民の間で根強かったため」であるとされる[9]。
このようなことから、皇族には一般国民に保障されている基本的人権が存在しない[10]とされることもある。奴隷的拘束や苦役からの自由(憲法第18条)、居住移転の自由、職業選択の自由、外国移住・国籍離脱の自由(憲法第22条)等が事実上ない皇室の在籍者は、安全のため24時間体制で公私に関係なく行動を監視され、外出時も必ず皇宮警察の皇宮護衛官あるいは行啓先の都道府県警察(警視庁および各道府県警察本部)所属の警察官による警衛の下で行動しなければならない。従って、一般国民が利用する実店舗に赴くことは出来ず、物品の購入方法は外出が不要な百貨店のカタログ持参による外商やAmazonのような通信販売を利用することが大抵である。Amazonなどの通信販売サービスの利用については宮内庁職員や私的使用人の名前で注文し、商品受取時に皇族が対応することは一切ない。皇室在籍者は、親密な交際相手であっても一般国民であれば、電話やインターネットを介した連絡までは頻繁に行うが、対面で会話することは殆どない[11]。
宗教面では、事実上信教の自由(憲法第20条)がない天皇は日本神話により天照大神の子孫とされ、宮中祭祀などの神儀祭事は神道に則って行う必要がある[12]。
生活面で、日常の食事は宮内庁大膳課の料理長が皇室専属の医師と相談しながら、1日の摂取カロリーの上限を1800kcalとし、栄養価を計算した献立で作るため、品数が少なく質素であるとされている[13]。献立は「和食」と「洋食」を採用している。「中華料理」が食卓に上ることは殆どないと言う[14]。
経済面において、皇室は皇室経済法の規定により国庫から支払われる「皇室費」を収入として生活しており、公的な活動に掛かる費用は「宮廷費」で賄い、私的な費用は、天皇・皇后と皇太子一家の場合は「内廷費」で、その他の宮家は「皇族費」で賄っている。例えば、秋篠宮家には、年間6710万円の皇族費が国庫から支払われている(平成時代の場合)。警備上の理由により、皇室の在籍者はアルバイトをすることができない[15]。
皇室構成員は、一般国民が登録される戸籍ではなく「皇籍を有する者」であり、「皇統譜(こうとうふ)」にその名が記される。皇統譜の人名は「称号+名+身位」で構成され、氏(苗字)を持たない。例えば、第126代天皇徳仁と皇后雅子の皇女子の敬宮愛子内親王の「敬宮」(としのみや)は、あくまで「称号」であり「苗字」ではなく、内親王は身位である(詳細後述)。
女性皇族(内親王・女王)が結婚等により皇室を離れる場合、皇統譜に皇籍離脱の登録を行い、代わりに戸籍を作成して一般国民になり、名前についても氏(苗字)を与えられ、マスメディアで使用される敬称も尊敬を意味する敬称の「さま」から対等を意味する敬称の「さん」に変わる。つまり、公人から私人となり、様々な法的措置を講じる事が出来るようになるため、報道における制限も厳しくなる。
議論
- 皇室は「家」であるのか
皇室の構成員は、天皇およびその男系血脈による近親者で構成されており、「皇家」「天皇家」と通称されるなど、一種の「家」とみなされることがある。
歴史学的には皇室とは天皇を祭り主としての頂点とする氏族であり、実際に終戦までは傍系の皇族である世襲親王家である宮家を含めていた [16]。
学説では、皇室とは総皇族の一団による家であり、その家長が天皇である、という説がある。これに対して、例えば宮内官僚の酒巻芳男は、皇室は民法に定めたような私的な生活単位としての「家」ではなくて、統治権の総攬者としての天皇と、その近親者によって構成される国家の一組織である、と述べている。すなわち、皇室は「家」であることには変わりないが、民法に定められた「家」とは異なる、公的な立場を持った特殊な「家」である、といえる。
- 皇室は法人か
皇室が法人性を有するかについては、学界でも議論が分かれる。主な学者では、美濃部達吉は法人説、佐々木惣一は非法人説を主張した。ただし、法制面および行政面においては、皇室は法人格を有していない。
構成
2025年2月2日現在の皇室の構成員は、天皇1名、上皇1名、皇族14名(皇后1名、上皇后1名、親王3名、親王妃4名、内親王2名、女王3名)を合わせた16名である。
内廷
天皇および皇后、愛子内親王は皇居内に常時の住居である御所を構える。上皇明仁および上皇后美智子は赤坂御用地内の「仙洞御所」を住居としている。宮内庁には、内部部局である「侍従職」が天皇および皇后とその未婚の子女に関する事務を扱う機関として、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」に基づいて「上皇職」が上皇および上皇后に関する事務を扱う機関として、「皇嗣職」が皇嗣とその家族に関する事務を扱う機関として、それぞれ設置されている。
- 天皇・皇后および皇子女
構成員3名。
- 出典[19]
- 上皇・上皇后
構成員2名。
- 出典[20]
宮家
宮家(みやけ)とは、日本において、宮号を賜った皇族の一家のことである。親王および王の家を指すこともある。現在、4つの宮家がある。宮(みや)とは、元々、天皇および皇族の邸の事を指し、転じて住んでいる皇族のことを指すに至った。さらに、親王の身位とともに「○○宮」との称号(宮号)を世襲することが認められる例が生じ、これが「宮家」と呼ばれるものであり、個別には宮号に応じて「○○宮家」と呼ばれることがある。ただし、現行法上はいずれも法的な根拠を持つものではない。「○○宮」の称号は宮家の当主たる(あるいは生前当主であった)親王・王個人の称号であり、その家族は用いない。近世では傍系の四親王家(四世襲親王家)、近代から敗戦までは4親王家から派生発展した11宮家(旧宮家・旧皇族)を主に「宮家」、「皇族」と呼び、天皇家族とこれらの宮家を含めた構成が皇室であった[21]。
秋篠宮家
秋篠宮家(あきしののみやけ)は、上皇所生の直宮家、筆頭宮家。構成員4名。天皇の弟宮である当主の秋篠宮文仁親王は、皇嗣(皇位継承順位1位)。皇室典範による皇位継承権たる皇族男子を2名以上有する宮家である。
2021年(令和3年)に眞子内親王(小室眞子)が婚姻により皇籍を離脱した(皇室典範第12条による)。
宮邸は、東京都港区元赤坂二丁目の赤坂御用地内に所在。1997年(平成9年)3月からは、旧秩父宮邸を使用している。
画像
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御名
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読み
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御称号
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身位
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敬称
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性別
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生年月日
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現年齢
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天皇から 見た続柄
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皇位 継承順位
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摂政 就任順位
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文仁
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ふみひと
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あやのみや 礼宮
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親王
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殿下
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男性
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1965年(昭和40年) 11月30日
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59歳 |
皇弟/ 上皇第二皇男子 (二男一女のうち第二子)
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第1位(皇嗣)
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第1位
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紀子
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きこ
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親王妃 (秋篠宮妃)
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殿下
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女性
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1966年(昭和41年) 9月11日
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58歳 |
義妹 旧姓:川嶋(かわしま)
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佳子
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かこ
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内親王
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殿下
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女性
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1994年(平成6年) 12月29日
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30歳
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皇姪 /上皇皇孫 文仁親王第二女子 (一男二女のうち第二子)
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第7位
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悠仁
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ひさひと
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親王
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殿下
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男性
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2006年(平成18年) 9月6日
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18歳
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皇甥 /上皇皇孫 文仁親王第一男子 (一男二女のうち第三子)
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第2位
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第2位
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- 出典[22]
常陸宮家
常陸宮家(ひたちのみやけ)は、昭和天皇所生の直宮家、上皇の弟宮。構成員2名。
宮邸は、東京都渋谷区東(旧・常磐松町)の常盤松御用邸。
- 出典[23]
三笠宮家
三笠宮家(みかさのみやけ)は、大正天皇所生の直宮家、昭和天皇の弟宮。構成員3名。
当主であった崇仁親王及び妃の崇仁親王妃百合子は、すでに薨去し故人である。
寬仁親王妃信子および彬子女王と瑶子女王は、寬仁親王家として皇室経済法で宮家としての扱いを受けていたが、寛仁親王の薨去に伴い合流となった[24][25]。
宮邸は、東京都港区元赤坂二丁目の赤坂御用地内の三笠宮・宮邸。
- 出典[26]
高円宮家
高円宮家(たかまどのみやけ)は、崇仁親王第三男子(三男二女のうち第五子)の憲仁親王が創設した宮家。構成員2名。
憲仁親王は既に薨去した故人であり、男子の宮家後継者が不在のため、妃の憲仁親王妃久子が宮家の当主を務める。
2014年(平成26年)に典子女王(千家典子)、2018年(平成30年)に絢子女王(守谷絢子)が婚姻により皇籍を離脱した(いずれも皇室典範第12条による)。
宮邸は、東京都港区元赤坂二丁目の赤坂御用地内の高円宮・宮邸。
- 出典[27]
系図
[28]
太字が現在の構成員。
現行皇室典範下で誕生した皇室の子女
誕生 |
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年齢 |
性別 |
続柄 |
皇位継承順位 |
摂政就任順位
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班位
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1948年(昭和23年)02月11日
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桂宮宜仁親王 |
(故人) |
男子 |
三笠宮崇仁親王第2王男子(3男2女のうち第3子) |
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-
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-
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1951年(昭和26年)10月23日
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容子内親王(千容子) |
73歳 |
女子 |
三笠宮崇仁親王第2王女子(3男2女のうち第4子) |
- |
-
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-
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1954年(昭和29年)12月29日
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高円宮憲仁親王 |
(故人) |
男子 |
三笠宮崇仁親王第3王男子(3男2女のうち第5子) |
- |
-
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-
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1960年(昭和35年)02月23日
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徳仁 |
64歳 |
男子 |
上皇明仁第1皇男子(2男1女のうち第1子) |
(第126代天皇) |
-
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-
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1965年(昭和40年)11月30日
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秋篠宮文仁親王 |
59歳 |
男子 |
上皇明仁第2皇男子(2男1女のうち第2子) |
第1位 |
第1位
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第3位
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1969年(昭和44年)04月18日
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紀宮清子内親王(黒田清子) |
55歳 |
女子 |
上皇明仁第1皇女子(2男1女のうち第3子) |
- |
-
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-
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1981年(昭和56年)12月20日
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彬子女王 |
43歳 |
女子 |
寬仁親王第1王女子(2女のうち第1子) |
- |
第7位
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第12位
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1983年(昭和58年)10月25日
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瑶子女王 |
41歳 |
女子 |
寬仁親王第2王女子(2女のうち第2子) |
- |
第8位
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第13位
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1986年(昭和61年)03月08日
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承子女王 |
38歳 |
女子 |
高円宮憲仁親王第1王女子(3女のうち第1子) |
- |
第9位
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第15位
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1988年(昭和63年)07月22日
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典子女王(千家典子) |
36歳 |
女子 |
高円宮憲仁親王第2王女子(3女のうち第2子) |
- |
-
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-
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1990年(平成02年)09月15日
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絢子女王(守谷絢子) |
34歳 |
女子 |
高円宮憲仁親王第3王女子(3女のうち第3子) |
- |
-
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-
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1991年(平成03年)10月23日
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眞子内親王(小室眞子) |
33歳 |
女子 |
秋篠宮文仁親王第1王女子(1男2女のうち第1子) |
- |
-
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-
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1994年(平成06年)12月29日
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佳子内親王 |
30歳 |
女子 |
秋篠宮文仁親王第2王女子(1男2女のうち第2子) |
- |
第6位
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第7位
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2001年(平成13年)12月01日
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敬宮愛子内親王 |
23歳 |
女子 |
今上天皇第1皇女子(1女のうち第1子) |
- |
第5位
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第5位
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2006年(平成18年)09月06日
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悠仁親王 |
18歳 |
男子 |
秋篠宮文仁親王第1王男子(1男2女のうち第3子) |
第2位 |
-
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第6位
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皇室の活動
宮中の公務
- 国事行為
- 日本国憲法第6条および第7条により、天皇が行う。また、皇族の中から摂政、もしくは国事行為臨時代行を置き、代行させることができる。
- 一般参賀
- 新年祝賀と天皇誕生日祝賀に際し、皇居において一般参賀を行う。天皇と皇族が皇居長和殿のベランダに出て祝賀を受ける。なお三権の長を招いて行う「新年祝賀の儀」は国事行為に該当する儀式だが、この「新年一般参賀」は国事行為以外の公務とされている。
- 園遊会
- 天皇・皇后主催の社交の会。毎年、春と秋の 2回、赤坂御苑において催される。
儀式
近代以後における皇室の儀式は、かつて大日本帝国憲法および旧皇室典範下の皇室令で細かく規定されていたが、現日本国憲法および皇室典範下で廃止された現在でも、基本的にはおおむねこれに従って行われる。
皇室の儀式には、日本国憲法第7条で定めている「国事行為の儀式」と「皇室の私事で行われる私的行為の儀式」に区別される。
宮中祭祀
五穀豊穣や国家国民の安寧を祈るものである。代表的なものは主に現在の祝日(春分の日の春季皇霊祭など)にあたる日に行われている。
年間主要祭儀
行幸・行啓
急遽、戦災(東京大空襲)や被災した地域に行幸することがしばしばあるが、一般にかねてより計画されたものとなる。
国際親善
各国君主制国家の王室との関係は親密である。取り決めによってそれぞれの王室に不幸があった場合、半旗を掲げることと、服喪することが慣例になっている [要出典]。
天皇の国事行為の「外国の外交官の接受」の一環である「信任状奉呈式」に際しては、皇室の馬車での送迎を認めている。馬車を使用した場合、東京駅から皇居宮殿御車寄までの道のりになる。自動車での送迎も可能であるが、馬車を希望する大使が多いと言われる。宮内庁は皇室の馬車による送迎は各国親善に役立っているとしている[30]。2007年(平成19年)8月、馬インフルエンザの影響により馬車による送迎が見送られたことがある。
国民との関わり
皇室行事
明治天皇および過去の天皇の巡行にならい、昭和天皇以降も全国への「巡幸」が行われている。
主に式典の主賓としての列席および祝辞、弔辞、開会または閉会の「おことば」として挨拶をするなどが代表的な活動といえる。更に、医療・社会福祉施設・児童施設への訪問や戦没者などへの慰霊碑などへの参拝も積極的にこなしている。
一般参賀
新年の一般参賀は正月に皇居において天皇はじめ皇族が5回程度、長和殿に「お出まし」として姿を現し、国民の参賀を受ける。また、天皇誕生日にも同様、一般参賀が行われる。ちなみに、宮内庁の発表によれば、2008年(平成20年)度は過去最高の2万2655人が参賀した。この一般参賀の参列者の多くは日章旗の小旗を片手に振りながら拍手で出迎えるのが恒例となっている。
歌会始
皇室の行事の一つで新年を賀するために宮中で行われる和歌の会。一定の題にしたがって国民からの詠進歌を募集している。
勤労奉仕
宮内庁では、「勤労奉仕」(きんろうほうし)の名でボランティア活動として「国民の自主的な意思に基づく無給奉仕による皇居および赤坂御用地の清掃活動への参加」を受け付けている。
皇居参観
宮内庁では、事前の予約に基づき、皇居をはじめ京都御所、京都仙洞御所、桂離宮などの参観を許可している。また、日本人のみならず訪日外国人観光客にとっても人気のある観光スポットにもなっている。
関係省庁
宮内庁
宮内庁(くないちょう、英: Imperial Household Agency)は、日本の行政機関の一つである。皇室関係の国家事務、天皇の国事行為にあたる外国の大使・公使の接受に関する事務、皇室の儀式に係る事務をつかさどり、御璽・国璽を保管する内閣府の機関である。所在地は東京都千代田区千代田1番1(皇居内・坂下門の北側)。
なお、宮内庁はかつて総理府の外局であったが、現在は内閣府の外局(内閣府設置法第49条・第64条)ではなく内閣府に置かれる独自の位置づけの機関とされている(内閣府設置法48条)。官報の掲載では内閣府については「外局」ではなく「外局等」として宮内庁を含めている。
1947年(昭和22年)には宮内府(くないふ)となり、さらに1949年(昭和24年)に宮内府は宮内庁となって総理府の外局となり、宮内庁長官の下に宮内庁次長が置かれ、1官房3職2部と京都事務所が設置された。2001年(平成13年)1月6日には、中央省庁再編の一環として内閣府設置法が施行され、宮内庁は内閣府に置かれる機関となった。
幹部
内部部局
皇宮警察本部
皇宮警察本部(こうぐうけいさつほんぶ)は、皇室の警備を担う警察庁の機関。詳細は下記「警備」の節を参照。
宮内省(廃止)
宮内省(くないしょう、英: Ministry of the Imperial Household)は、皇室関連事務を司った省庁。戦後廃止され、職能は現在の宮内庁に引き継がれた。
かつて明治2年(1869年)7月8日、古代の太政官制にならって、いわゆる「二官八省」からなる政府が組織されたが、この際、かつての大宝令に規定された宮内省(くないしょう/みやのうちのつかさ)の名称のみを受け継ぐべく設置された。1943年(昭和18年)には、職員が総勢6000人を上回っていた。また、親任官という、天皇が叙任し、内閣総理大臣の副署を必要とした高級官僚が9人いた。戦後、連合国軍占領下で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の要求により縮小され、職員は1500人まで削減された。これに伴い大部分の業務は他部局に移管された。所在地は、東京府東京市麹町区であった。
宮内省について、学術的・体系的に論述した本に、アメリカ合衆国の日本研究家であるデイビッド・タイタス著『日本の天皇政治 宮中の役割の研究』(原題は、『Palace and Politics in Prewar Japan/戦前の宮殿と政治』)がある。
幹部
内部部局(大臣官房・外局)
予算・財産
皇室の予算
皇室費は平成28年度予算案で約61億円。皇室費は内廷費・宮廷費・皇族費の三つに分かれている。(皇室経済法第3条)。また、宮内庁費は109億3,979万円。皇宮警察本部人件費は72億4500万円。[32]
- 内廷費
- 天皇・内廷にある皇族の日常の費用その他内廷諸費に充てるもので,法律により定額が定められ,平成28年度は,3億2,400万円。内廷費として支出されたものは,御手元金となる。(皇室経済法第4条,皇室経済法施行法第7条)。この内、約3分の1が人件費(内廷で私的に雇われる職員)に、3分の2が物件費に使われる。[33]
- 皇族費
- 皇族としての品位保持の資に充てるためのもので,各宮家の皇族に対し年額により支出される。平成28年度の皇族費の総額は,2億2,997万円。皇族費として支出されたものは,各皇族の御手元金となる。なお,皇族費には,皇族が初めて独立の生計を営む際に一時金として支出されるものと皇族がその身分を離れる際に一時金として支出されるものもある(皇室経済法第6条)。
- 宮廷費
- 儀式,国賓・公賓等の接遇,行幸啓,外国ご訪問など皇室の公的ご活動等に必要な経費,皇室用財産の管理に必要な経費,皇居等の施設の整備に必要な経費などで,平成28年度は,55億4,558万円。宮廷費は,宮内庁の経理する公金である(皇室経済法第5条)。
皇室経済会議
皇室経済に関する重要な事項の審議に当たるため、合議体の皇室経済会議が設置される。
同会議の議員は、衆議院および参議院の議長および副議長、内閣総理大臣、財務大臣、宮内庁の長ならびに会計検査院の長の8人。
議長は内閣総理大臣。
皇室経済会議の主要な職務は次のとおり。
- 皇族が独立の生計を営むことの認定
- 皇族がその身分を離れる際に支出する一時金額による皇族費の金額決定
- 内廷費・皇族費の定額の変更の必要を認める旨の意見の提出
現在の議員
皇室用財産
皇室用財産とは国において皇室の用に供し、又は供するものと決定したもののこと(国有財産法第3条第2項第3号)。[35]
被服
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2019年(令和元年)10月22日 即位礼正殿の儀に臨む天皇徳仁と皇后雅子
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天皇と皇族が着用する被服(御服)は、皇室令「天皇ノ御服ニ関スル件」と同「皇族服装令」に規定があるが、西洋のノブレス・オブリージュの慣習に倣い、大日本帝国憲法下であった戦前の各皇族男子はほぼ軍務に服していたためそれぞれの大日本帝国陸軍および大日本帝国海軍の服制によった。また、祭儀用の御服については、その儀式において一々に規定されており、現在も慣習としてこれを踏襲している。なお、皇族女子の御服は、朝議、祭儀用ともその祭儀に一々にして規定はあるが、それ以外は別段の規定はない。
天皇の被服
下記の二種は、1945年(昭和20年)までの天皇の被服に関して記す。
- 陸軍式
- 正装(フロック形式正衣に前立を附する正帽)、礼服(フロック形式正衣に前立を附さない正帽)、通常礼服(軍衣、軍帽)、軍装、略装。
- 海軍式
- 正装(燕尾形式衣に黒色天鵞絨反り形帽子、大元帥佩刀)、礼装(フロック式礼衣に黒色天鵞絨反り形帽子、佩刀)、通常礼装(フロック形礼衣に軍帽、短剣)、軍装(第一種および第二種)であり、略装は存在しない。
なお第二次世界大戦後、傍系宮家に属する皇族の臣籍降下(皇籍離脱)以後、女性はもとより男性皇族が自衛官ないし自衛隊員として自衛隊(陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊)の服務に従事するようなことはないため、天皇の御服として自衛官制服(他国における軍服)が使用されることはない。
-
陸軍正装姿の明治天皇
1888年撮影
-
海軍正装姿の昭和天皇
1928年撮影
装束
- 袞衣
- 袞衣(こんえ)は、天皇の最高礼装であり、歴代天皇の即位の礼や朝賀の際にのみ用いられた服であった。着用の際には冕冠を戴冠する。明治天皇即位の礼の際に廃止された。
- 御祭服(束帯、袍)
- 御祭服(ごさいふく)は、宮中祭祀の神事の中で、最も清浄にして神聖な御服であり、練らない白生絹で製作されたもので、大嘗祭の「悠紀主基(ゆきすき)両殿親祭」、年中恒例の神事では新嘗祭の時にだけ召される。冠は幘製の御幘の冠(おさくのかんむり)で、これらは天皇が未成年の場合には一切召すことができない。
- 帛御服(束帯、縫腋袍)
- 帛御服(はくのごふく)は、前者に次ぐ祭儀服で、純白無文、冠は立纓(冠の纓が前方に立っているもの)である。ただし、未成年時はこれらを召さず「空頂黒幘」を召す。即位の礼の一部と、大嘗祭の渡御のときにしか召されず、通常は用いられることはない。
- 黄櫨染御袍(束帯、縫腋袍)
- 黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)は、年中の神事、皇室行事を通じて最も多く用いられる。桐、竹、鳳凰、麒麟の地紋が表されている。袍は禁色の黄櫨染であり、嵯峨天皇以来明治天皇までの御服であり袞衣が廃止されてからは、即位の礼など重要儀式で用いられる。
- 御直衣
- 御直衣(おのうし)は、皇室または国家の大事に際し、御奉告のため臨時に行う神宮、山陵への勅使発遣の儀、紀元節祭および先帝祭の御神楽の儀等に用いられる。また毎月(一月一日を除く)の旬祭に御親拝の節もこの御服を召される。
- 御引直衣
- 御引直衣(おひきのうし)は、御袍の丈が長く、裾を三尺以上(1メートル以上)も長く引く。即位礼後神宮の礼、神武天皇山陵と前帝四代の山陵へ勅使発遣の儀に用いられる。
- 御小直衣
- 御小直衣(おこのうし)は、年中恒例行事の御祭儀では、六月、十二月の節折の儀式等に用いられる。
- 闕腋袍
- 闕腋袍(けってきのほう)は、未成年の男性皇族の装束。冠は被らず、空頂黒幘を着用する。
皇太子・男性皇族の装束
- 黄丹袍
- 皇太子(皇嗣・皇太弟を含む)が儀式の際に着用する束帯。太陽の色を表している。
- 束帯(縫腋袍)
- 一般皇族男子が着用する文官の束帯。
皇后・皇太后、女性皇族の被服
御洋装と御儀服(御装束)の二種に分けられる。下記の二種は、1945年(昭和20年)までの皇后および皇太后の被服に関して記す。
- 御大礼服 - マント・ド・クール(manteau de cour)
- フランス語で宮廷礼服を意味する。戦前までの宮中新年儀式(現・新年祝賀の儀)においてのみ用いられた、18世紀のフランス・ルイ王朝時代の礼服。明治19年(1886年)6月23日、伊藤博文宮内大臣内達によって宮中における皇族女性の礼服として定められた。
- 御中礼服 - ローブ・デコルテ(robe décolletée)
- 御通常服 - ローブ・モンタント(robe montante)
皇室と氏姓
天皇および皇族は、氏姓および名字を持たない。なお、宮家の当主が有する「○○宮」の称号は、あくまで宮家の当主個人の称号(宮号)とされており、一般国民でいう苗字には当たらない。
古代日本において、氏姓(しせい)、すなわち氏(ウジ)名と姓(カバネ)はヤマト政権の大王(おおきみ、のちの天皇)が臣下へ賜与するものと位置づけられていた(氏姓制度)。大王は、氏姓を与える超越的な地位にあり、大王に氏姓を与える上位の存在がなかったため、大王、そして天皇は氏姓を持たなかったとされる。このことは、東アジア世界において非常に独特なものである。また、このことは古代より現在に至るまで日本で王朝が変わったことがないことを示しているとされる。延久4年(1072年)に日本の仏教僧である成尋は北宋の神宗への謁見で「本国の王は何というか」と尋ねられた際に「本国の王に姓なし」と答えた文献がある。
しかし、ウジ・カバネが制度化される以前の大王は、姓を有していたとされる。5世紀の倭の五王が、倭讃、倭済などと称したことが『宋書』倭国伝ないし文帝紀などに見え、当時の倭国王が「倭」姓を称していたことがわかる。このことから、宋との冊封関係を結ぶ上で、ヤマト王権の王が姓を称する必要があったのだと考えられている[37][38]。
また、『隋書』倭国伝に倭国王の姓を「阿毎」(あま、あめ)とする記述があり、7世紀初頭まで大王家が姓を有していたとする説もあるが、中国風の一字姓でないことから「阿毎」は姓でないとする説もある[37]。大王家の「倭」姓は、中国の冊封体制から離脱した5世紀末ないし、氏姓制度の形成が進んだ5世紀末から6世紀前半までの間に放棄されたとする説も提出されている[37]。文献では、姓はアメ、字はタラシヒコと記述されているが、日本語では、「天垂らし彦」になり、天から垂れた(降りた)男子という意であり[39][40]、つまり「天孫」という意味になる。中国語では「天子」(『通典』では「天児」)がこれに当たるが、中国の天子とは意味が異なる[41]。一方で、熊谷公男は『万葉集』の「天の原 振り放(さ)けみれば 大王の 御寿(みいのち)は長く 天足らしたり」(巻二から一四七)の歌などを参考に、「天の満ち足りた男子」という意味の尊称と解釈している[42](この説は森田悌も支持している[43])。森田悌は邪馬台国の時代では、「天垂らし彦」の称号があったとは考えがたいとし[44]、以後の時代に大陸思想の影響から芽生えたとみている[45](また、「天子」という語が反感を受けたのに対し、「天垂らし彦」の反応が低かったことに注目している)。王仲殊も阿毎多利思比孤は「天足彦(天の満ち足りた男子)」とした(天垂らし彦説もあると紹介した)上で、この語の中にはすでに「天子」「天皇」といった意味が含まれており、これは最初の国書で日中両国の君主を共に「天子」と称したため、中国側の不快感をあおったところから、それぞれ天子を「皇帝」と「天皇」と呼び変えて区別を示したとする[46]。
吉田孝は、倭国が5世紀末に中国の冊封体制から離脱し、7世紀初頭の推古朝でも倭国王に冊封されなかったことが、大王=天皇が姓を持たず「姓」制度を超越し続けたことにつながったとしている[37]。
最高敬語
- 御写真
- 写真。旧字体では「御寫眞」。官衙(役所・官庁)、学校等に下賜された天皇・皇后の写真ではなく、それ以前の天皇皇后である明治天皇・昭憲皇太后、大正天皇・貞明皇后、昭和天皇・香淳皇后の写真をいう。また、各皇族の場合にも用いる。戦前、宮内省(現在の宮内庁)では「御寫眞」と発表していたが、巷間の「御真影」(ごしんえい)という名称も使用可である。
- 御影
- 天皇・皇后の写真。「ぎょえい」とよむ。1910年(明治43年)以降、文部省(中央省庁再編後の文部科学省)の調査委員会で定め各学校に発布した。
- 御尊影、御尊像、御肖像
- 天皇、皇后、皇太后の写真。主として、新聞・雑誌に奉載したものをいう。
- 自尊敬語
- 天皇が一人称を使うときは、第二次世界大戦直後までは「朕(ちん)」を使っていた。戦後は「私(わたし、わたくし)」を使用している。
皇室会議
皇室会議は、日本の皇室に関する重要な事項を合議する国の機関である。皇室典範第28条以下に定められる。
以下の重要事項について、皇室会議の「議を経る」または「議に拠る」こととされ、諮問機関とは一線を画する。
- 皇位継承の順序変更(皇室典範第3条)
- 立后と皇族男子(親王、王)の婚姻(同第10条)
- 皇族の身分の離脱(同第11条・第13条・第14条):皇族女子の結婚による皇籍離脱(同第12条)は除く
- 摂政の設置・廃止(同第16条・第20条)
- 摂政の順序の変更(同第18条)
議員
警備
天皇および皇后、皇太子その他の皇族の護衛、皇居および御所の警衛、その他皇宮警察に関する事務をつかさどる[48]機関として、皇宮警察本部[49](こうぐうけいさつほんぶ、英:Imperial Guard Headquarters)が置かれる。警察庁の附属機関[48]で、本部所在地は東京都千代田区千代田1番3号。
本部長は、皇宮警視監の階級の皇宮護衛官であるが、慣例により内閣府事務官である宮内庁職員にも併任される。
本部の紋章は五三桐[注 6]である。桐紋は菊花紋章と並んで古来から皇室の象徴とされてきた。
皇居のうち、宮殿および皇居東御苑等の区域を担当する坂下護衛署、御所・宮中三殿等の区域を担当する吹上護衛署、赤坂御用地(赤坂御所(旧東宮御所)・各宮邸等)および常盤松御用邸(常陸宮邸)の区域を担当する赤坂護衛署が設置されている。東京以外では、京都府には京都御所・京都仙洞御所・京都大宮御所・桂離宮・修学院離宮および正倉院(奈良市)の区域を担当する京都護衛署を置き、神奈川県の葉山御用邸、栃木県の那須御用邸、御料牧場、静岡県の須崎御用邸、奈良県の正倉院には、皇宮護衛官派出所が置かれている[50][51]。
皇室系図
第126代天皇の男系(父系)直系祖先
家系図形式
- 各囲みの一段目は、諱/生年-没年/性別 の形式で表記。
- 各囲みの二段目と三段目の下部の数字は即位年と退位年である。
- 年は西暦で記し、「前」は紀元前、「?」は不詳を表す。
- 「(諡)」記号は名称が漢風諡号(生前の行跡に基づいて死後に贈られた名)であることを意味する。
- 「(第~代)」は天皇の代数[要出典]。
- 記紀による初代天皇(神武天皇)以前の系図については、皇室、皇室の系図一覧を参照。
天照大御神/神話上の存在/♀ |
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天忍穂耳/神話上の存在/♂ |
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瓊瓊杵/神話上の存在/♂ |
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彦火火出見/神話上の存在/♂ |
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彦波瀲武盧茲草葺不合/神話上の存在/♂ |
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彦火火出見/前711-前585/♂ 神武天皇(諡) 前660-前585(第1代) |
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(諱不明)/前632-前549/♂ 綏靖天皇(諡) 前581-前549(第2代) |
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(諱不明)/前577-前510/♂ 安寧天皇(諡) 前549-前510(第3代) |
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(諱不明)/前553-前476/♂ 懿徳天皇(諡) 前510-前476(第4代) |
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(諱不明)/前506-前393/♂ 孝昭天皇(諡) 前475-前393(第5代) |
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(諱不明)/前427-前291/♂ 孝安天皇(諡) 前392-前291(第6代) |
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(諱不明)/前342-前215/♂ 孝靈天皇(諡) 前290-前215(第7代) |
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(諱不明)/前273-前158/♂ 孝元天皇(諡) 前214-前158(第8代) |
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(諱不明)/前208-前98/♂ 開化天皇(諡) 前157-前98(第9代) |
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御間城/前148-前29/♂ 崇神天皇(諡) 前97-前29(第10代) | | | | | | 彦坐/?-?/♂ |
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活目/前68-70/♂ 垂仁天皇(諡) 前29-70(第11代) | | | | | | | | |
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大足彦/前13-130/♂ 景行天皇(諡) 71-130(第12代) | | | | | | | | |
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日本武/82?-113?/♂ | | 稚足彦/84-191/♂ 成務天皇(諡) 131-191(第13代) | | | | |
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足仲彦/148?-200/♂ 仲哀天皇(諡) 192-200(第14代) | | | | | | 気長足姫/170-269/♀ 神功皇后(諡) 201-269(摂政) | |
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| | | | 譽田/200-310/♂ 應神天皇(諡) 270-310(第15代) |
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| | 大鷦鷯/257-399/♂ 仁徳天皇(諡) 313-399(第16代) | | | | | | | | | | 稚野毛二派/?-?/♂ |
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| | | | | | | | | | | | | | | | |
去来穂/336?-405/♂ 履中天皇(諡) 400-405(第17代) | | 瑞歯/336?-410/♂ 反正天皇(諡) 406-410(第18代) | | 雄朝津間稚子/376?-453/♂ 允恭天皇(諡) 413-453(第19代) | | 忍坂大中姫/?-?/♀ | | 意富富杼/?-?/♂ | |
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| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
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市辺押磐/?-?/♂ | | | | | | 穴穂/401-456/♂ 安康天皇(諡) 454-456(第20代) | | 大泊瀬幼武/418-479/♂ 雄略天皇(諡) 456-479(第21代) | | 乎非/?-?/♂ |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
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億計/449-498/♂ 仁賢天皇(諡) 488-498(第24代) | | 弘計/450-487/♂ 顯宗天皇(諡) 484-487(第23代) | | 飯豊青/440-484/♀ 484-484(臨朝秉政) | | 白髪/444-484/♂ 清寧天皇(諡) 480-484(第22代) | | 彦主人/?-?/♂ |
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| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
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小泊瀬稚鷦鷯/489-507/♂ 武烈天皇(諡) 498-507(第25代) | | 手白香/?-?/♀ | | | | | | | | | | 男大迹/450-531/♂ 繼體天皇(諡) 507-531(第26代) |
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| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
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| | | | | | | | 志帰嶋/509-571/♂ 欽明天皇(諡) 540-571(第29代) | | 勾/465-536/♂ 安閑天皇(諡) 531-536(第27代) | | 高田/467-539/♂ 宣化天皇(諡) 536-539(第28代) |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
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| | | | 他田/538-585/♂ 敏達天皇(諡) 572-585(第30代) | | 額田部/554-628/♀ 推古天皇(諡) 593-628(第33代) | | 池辺/540?-587/♂ 用明天皇(諡) 585-587(第31代) | | 泊瀬部/553?-592/♂ 崇峻天皇(諡) 587-592(第32代) |
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| | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | | 押坂彦人/?-?/♂ | | | | | | 厩戸/574-622/♂ 聖徳太子(諡) 593-622(摂政) |
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| | | | 茅渟/?-?/♂ | | | | | | |
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軽/596-654/♂ 孝徳天皇(諡) 645-654(第36代) | | 宝/594-661/♀ 皇極天皇(諡) 642-645(第35代) 齊明天皇(諡) 654-661(第37代) | | | | 田村/593-641/♂ 舒明天皇(諡) 629-641(第34代) |
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| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
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| | | 葛城/626-672/♂ 天智天皇(諡) 661-672(第38代) | | | | | | | | | | | | |
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| | | | 大友/648-672/♂ 弘文天皇(諡) 672(第39代) | | | | | 鸕野讚良/645-701/♀ 持統天皇(諡) 690-697(第41代) | | | | 大海人/631?-686/♂ 天武天皇(諡) 672-686(第40代) |
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志貴/668?-716/♂ 春日宮天皇(諡) (追尊) | | | | 阿閇/661-721/♀ 元明天皇(諡) 707-715(第43代) | | 草壁/662-689/♂ 岡宮天皇(諡) (追尊) | | | 舎人/676-735/♂ 崇道尽敬天皇(諡) (追尊) |
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| | | | | | | 氷高/680-748/♀ 元正天皇(諡) 715-724(第44代) | | 珂瑠/683-707/♂ 文武天皇(諡) 697-707(第42代) | | | 大炊/733-765/♂ 淳仁天皇(諡) 758-764(第47代) |
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| | | | | | | | | | | | 首/701-756/♂ 聖武天皇(諡) 724-749(第45代) |
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高野新笠/?-790/♀ | | 白壁/709-782/♂ 光仁天皇(諡) 770-781(第49代) | | 井上/717-775/♀ | | 阿倍/718-770/♀ 孝謙天皇(諡) 749-758(第46代) 称徳天皇(諡) 764-770(第48代) |
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| | 山部/737-806/♂ 桓武天皇(諡) (別名: 柏原帝) 781-806(第50代) | | 早良/750?-785/♂ 崇道天皇(諡) (追尊) |
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安殿/774-824/♂ 平城天皇(諡) (別名: 奈良帝) 806-809(第51代) | | 神野/786-842/♂ 嵯峨天皇(諡) 809-823(第52代) | | 大伴/786-840/♂ 淳和天皇(諡) (別名: 西院帝) 823-833(第53代) |
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| | | | 正良/810-850/♂ 仁明天皇(諡) (別名: 深草帝) 833-850(第54代) |
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| | 道康/827-858/♂ 文徳天皇(諡) (別名: 田邑帝) 850-858(第55代) | | 時康/830-887/♂ 光孝天皇(諡) (別名: 小松帝) 884-887(第58代) |
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| | 惟仁/850-880/♂ 清和天皇(諡) (別名: 水尾帝) 858-876(第56代) | | 定省/867-931/♂ 宇多天皇(諡) 887-897(第59代) |
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| | 貞明/869-949/♂ 陽成天皇(諡) 876-884(第57代) | | 敦仁/885-930/♂ 醍醐天皇(諡) 897-930(第60代) |
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| | | | 寛明/923-952/♂ 朱雀天皇(諡) 930-946(第61代) | | 成明/926-967/♂ 村上天皇(諡) 946-967(第62代) |
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| | 憲平/950-1011/♂ 冷泉天皇(諡) 967-969(第63代) | | | | | | 守平/959-991/♂ 圓融天皇(諡) 969-984(第64代) |
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師貞/968-1008/♂ 花山天皇(諡) 984-986(第65代) | | 居貞/976-1017/♂ 三條天皇(諡) 1011-1016(第67代) | | | | 懐仁/980-1011/♂ 一條天皇(諡) 986-1011(第66代) |
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| | | | 禎子/1013-1094/♀ | | 敦良/1009-1045/♂ 後朱雀天皇(諡) 1036-1045(第69代) | | 敦成/1008-1036/♂ 後一條天皇(諡) 1016-1036(第68代) |
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| | | | | | 尊仁/1034-1073/♂ 後三條天皇(諡) 1068-1073(第71代) | | 親仁/1025-1068/♂ 後冷泉天皇(諡) 1045-1068(第70代) |
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| | | | | | 貞仁/1053-1129/♂ 白河天皇(諡) 1073-1087(第72代) |
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| | | | | | 善仁/1079-1107/♂ 堀河天皇(諡) 1087-1107(第73代) |
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| | | | | | 宗仁/1103-1156/♂ 鳥羽天皇(諡) 1107-1123(第74代) |
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| | 顕仁/1119-1164/♂ 崇徳天皇(諡) 1123-1142(第75代) | | 雅仁/1127-1192/♂ 後白河天皇(諡) 1155-1158(第77代) | | 体仁/1139-1155/♂ 近衞天皇(諡) 1142-1155(第76代) |
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守仁/1143-1165/♂ 二條天皇(諡) 1158-1165(第78代) | | | | 憲仁/1161-1181/♂ 高倉天皇(諡) 1168-1180(第80代) | | | | |
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順仁/1164-1176/♂ 六條天皇(諡) 1165-1168(第79代) | | 言仁/1178-1185/♂ 安徳天皇(諡) 1180-1185(第81代) | | 守貞/1179-1223/♂ 後高倉天皇(諡) (追尊) | | 尊成/1180-1239/♂ 後鳥羽天皇(諡) 1185-1198(第82代) | | |
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| | | | | | | | 茂仁/1212-1234/♂ 後堀河天皇(諡) 1221-1232(第86代) | | 為仁/1196-1231/♂ 土御門天皇(諡) 1198-1210(第83代) | | 守成/1197-1242/♂ 順徳天皇(諡) 1210-1221(第84代) |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | | | | | | 秀仁/1231-1242/♂ 四條天皇(諡) 1232-1242(第87代) | | 邦仁/1220-1272/♂ 後嵯峨天皇(諡) 1242-1246(第88代) | | 懐成/1218-1234/♂ 仲恭天皇(諡) 1221(第85代) |
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宗尊/1242-1274/♂ 1252-1266(鎌倉将軍6) | | | | | 久仁/1243-1304/♂ 後深草天皇(諡) 1246-1260(第89代) | | | | | | | 恒仁/1249-1305/♂ 龜山天皇(諡) 1260-1274(第90代) |
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惟康/1264-1326/♂ 1266-1289(鎌倉将軍7) | | 熈仁/1265-1317/♂ 伏見天皇(諡) 1287-1298(第92代) | | | | 久明/1279-1308/♂ 1289-1308(鎌倉将軍8) | | | | 世仁/1267-1324/♂ 後宇多天皇(諡) 1274-1287(第91代) |
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| | 胤仁/1288-1336/♂ 後伏見天皇(諡) 1298-1301(第93代) | | 富仁/1297-1348/♂ 花園天皇(諡) 1308-1318(第95代) | | 守邦/1301-1333/♂ 1308-1333(鎌倉将軍9) | | 邦治/1285-1308/♂ 後二條天皇(諡) 1301-1308(第94代) | | 尊治/1288-1339/♂ 後醍醐天皇(諡) 1318-1339(第96代) |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
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| | 量仁/1313-1348/♂ 光厳天皇(諡) 1332-1334(北朝1) | | 豊仁/1322-1380/♂ 光明天皇(諡) 1336-1348(北朝2) | | | | 義良/1328-1368/♂ 後村上天皇(諡) 1339-1368(第97代) | | 護良/1308-1335/♂ 1333-1334(征夷大将軍) | | 成良/1326-1338(または1344)/♂ 1334-1338(征夷大将軍) | |
| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |
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| | 興仁/1334-1398/♂ 崇光天皇(諡) 1348-1351(北朝3) | | 弥仁/1336-1374/♂ 後光嚴天皇(諡) 1352-1371(北朝4) | | 寛成/1343-1394/♂ 長慶天皇(諡) 1368-1383(第98代) | | 熙成/1350?-1424/♂ 後龜山天皇(諡) 1383-1392(第99代) |
| | | | | | | | | | |
| | 栄仁/1351-1416/♂ | | 緒仁/1339-1393/♂ 後圓融天皇(諡) 1371-1382(北朝5) | | 参照: 南朝、北朝 |
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| | 貞成/1372-1456/♂ 後崇光天皇(諡) (追尊) | | 幹仁/1377-1433/♂ 後小松天皇(諡) 1382-1392(北朝6) 後小松天皇(諡) 1392-1412(第100代) |
| | | | | | | | | | |
| | 彦仁/1419-1471/♂ 後花園天皇(諡) 1428-1464(第102代) | | 躬仁/1401-1428/♂ 称光天皇(諡) 1412-1428(第101代) |
| | | | | |
| | 成仁/1442-1500/♂ 後土御門天皇(諡) 1464-1500(第103代) |
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| | 勝仁/1464-1526/♂ 後柏原天皇(諡) 1500-1526(第104代) |
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| | 知仁/1497-1557/♂ 後奈良天皇(諡) 1526-1557(第105代) |
| | | | | |
| | 方仁/1517-1593/♂ 正親町天皇(諡) 1557-1586(第106代) |
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| | 誠仁/1552-1586/♂ 陽光天皇(諡) (追尊) |
| | | | | |
| | 和仁/1572-1617/♂ 後陽成天皇(諡) 1586-1611(第107代) |
| | | | | |
| | 政仁/1596-1680/♂ 後水尾天皇(諡) 1611-1629(第108代) |
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興子/1624-1696/♀ 明正天皇(諡) 1629-1643(第109代) | | 紹仁/1633-1654/♂ 後光明天皇(諡) 1643-1654(第110代) | | 良仁/1638-1685/♂ 後西天皇(諡) 1655-1663(第111代) | | 識仁/1654-1732/♂ 靈元天皇(諡) 1663-1687(第112代) |
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| | | | | | | | | | | | 朝仁/1675-1710/♂ 東山天皇(諡) 1687-1709(第113代) |
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| | | | | | | | 直仁/1704-1753/♂ | | 慶仁/1702-1737/♂ 中御門天皇(諡) 1709-1735(第114代) |
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| | | | | | | | | | | | | 昭仁/1720-1750/♂ 櫻町天皇(諡) 1735-1747(第115代) |
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| | | | | | | | 典仁/1733-1794/♂ 慶光天皇(諡) (追尊) | | 遐仁/1741-1762/♂ 桃園天皇(諡) 1747-1762(第116代) | | 智子/1740-1813/♀ 後櫻町天皇(諡) 1762-1771(第117代) |
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| | | | | | | | | | | | | 英仁/1758-1779/♂ 後桃園天皇(諡) 1771-1779(第118代) |
| | | | | | | | | | | | | | | | |
| | | | 勧修寺婧子/1780-1843/♀ | | 師仁/1771-1840/♂ 光格天皇(諡) 1780-1817(第119代) | | 欣子/1779-1846/♀ |
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| | | | | | 恵仁/1800-1846/♂ 仁孝天皇(諡) 1817-1846(第120代) |
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| | | | | | 統仁/1831-1867/♂ 孝明天皇(諡) 1846-1867(第121代) |
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| | | | | | 睦仁/1852-1912/♂ 明治天皇(諡) 1867-1912(第122代) |
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| | | | | | 嘉仁/1879-1926/♂ 大正天皇(諡) 1912-1926(第123代) |
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| | | | | | 裕仁/1901-1989/♂ 1921-1926(摂政) 昭和天皇(諡) 1926-1989(第124代) |
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| | | | | | 明仁/1933-/♂ (上皇) 1989-2019 (第125代) |
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| | | | | | 徳仁/1960-/♂ (今上天皇) 2019-(第126代) |
皇室旗
脚注
注釈
出典
- ^ 岡田英弘「第五章 最初の王朝」(『倭国』中央公論社,1977, pp.147-183)、「神話が作った大和朝廷」(『日本史の誕生』筑摩書房,2008)pp.245-267。
- ^ 平凡社, “神武天皇”, 『百科事典マイペディア』, VOYAGE GROUP・朝日新聞社, https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87-82633#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 2018年3月6日閲覧。
- ^ 『国史大辞典』吉川弘文館。
- ^ 新田英治, “両統迭立”, 『日本大百科全書(ニッポニカ)』, VOYAGE GROUP・朝日新聞社, https://kotobank.jp/word/%E4%B8%A1%E7%B5%B1%E8%BF%AD%E7%AB%8B-150055#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 2018年8月18日閲覧。
- ^ VOYAGE GROUP・朝日新聞社, “南北朝時代”, 『コトバンク』, VOYAGE GROUP・朝日新聞社, https://kotobank.jp/word/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3-108982 2015年5月24日閲覧。
- ^ フランク・B・ギブニー編『ブリタニカ国際大百科事典』 14巻(第2版改訂版)、ティビーエス・ブリタニカ、1993年、9頁。全国書誌番号:74006385。
- ^ 芦部信喜『憲法』p86
- ^ 憲法(1) 第3版(有斐閣)野中俊彦 中村睦男 高橋和之 高見勝利 216頁 / 憲法 新版補訂版(岩波書店)芦部信喜 86頁 / 憲法学(2)人権総論(有斐閣)芦部信喜 106頁 115頁 / 憲法 第3版(弘文堂)伊藤正己 199頁 / 憲法 第3版(青林書院)佐藤幸治 415頁 / 体系・戸籍用語辞典(日本加除出版)114頁
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- ^ “皇室会議議員名簿 - 宮内庁”. 宮内庁 (2024年12月23日). 2024年12月25日閲覧。
- ^ a b 警察法 第29条
- ^ 皇宮警察本部
- ^ 組織紹介 皇宮警察本部-IMPERIAL GUARD HEADQUARTERS-(2009年10月26日アーカイブ) - 国立国会図書館Web Archiving Project
- ^ 平成25年警察白書 P201「皇宮警察本部の活動」 (PDF)
参考文献
関連項目
外部リンク