世襲親王家世襲親王家(せしゅうしんのうけ)は、日本の皇室において、当代の天皇(今上天皇)との血縁の遠近に関わらず、代々天皇の猶子(養子)となって親王宣下を受けることで親王の身位を保持し続け、天皇に世継ぎがない場合に次の天皇を立てることになっていた宮家をいう[1][2][3]。定親王家ともいう。 概説律令制度においては、当初は天皇の兄弟姉妹や子女のみが親王・内親王とされていた。しかし、二世王から皇位についた淳仁天皇および光仁天皇は、とくに詔して兄弟姉妹および子女を親王・内親王とした。それ以来、天皇の子女であっても親王宣下を受けてはじめて親王・内親王となり、また天皇の孫以降の世代であっても天皇の猶子(養子)として親王宣下を受けることによって親王・内親王となる慣行が成立した[4][5][6]。特定の皇族を関連する地名等にちなんで「〜宮」と称することは奈良時代より存在したが、鎌倉時代以降、邸宅や所領の伝領とともに家号としての宮号が生まれ、さらに傍系の皇族が代々にわたって親王宣下を受けて宮号を世襲していく世襲親王家が誕生した[7]。 当主が宮号を名乗り、かつ親王宣下をこうむって世襲したことが明確に確認できる宮家の初例は、亀山法皇の皇子である恒明親王に始まる常盤井宮である。亀山法皇は晩年に誕生した恒明親王を寵愛し、将来、皇位を継がせるよう遺言したが、後宇多上皇はそれを履行しなかった。しかし、恒明親王は亀山法皇より生母を経て伝領した上皇御所常磐井殿を始めとして多くの所領を伝領したこともあり、常盤井宮は16世紀中頃まで約250年間にわたって存続した[7]。また、後二条天皇の第一皇子の邦良親王は、大覚寺統の正嫡と定められたが即位前に亡くなり、邦良親王の王子である康仁親王も光厳天皇の皇太子とされながら、のちに後醍醐天皇によって廃された。康仁親王の子孫は木寺宮と号し、15世紀半ばまで存続した[8]。この2つの宮家が世襲親王家の嚆矢である[9]。 常盤井宮・木寺宮に次いで創設された世襲親王家が伏見宮である。伏見宮は北朝第三代崇光天皇の第一皇子の栄仁親王に始まる。観応の擾乱に巻き込まれて廃位された崇光天皇は、その後、皇子の即位に力を尽くしたが果たさず、やがて栄仁親王の王子である貞成親王は洛南伏見の居所にちなんで伏見宮と号した[10]。その後、貞成親王の王子である彦仁王が後小松上皇の猶子となって皇位を継ぎ(後花園天皇)、後花園天皇は弟の貞常親王に対し、永世「伏見殿」と称することを認めた。伏見宮には天皇との「水魚」の関係、すなわち天皇を支える立場となることが期待された[11][10]。 その後、天正17年(1589年)に桂宮(当初は八条宮)、寛永2年(1625年)に有栖川宮(当初は高松宮)、宝永7年(1710年)に閑院宮が創設された。伏見宮とあわせて、この4つの世襲親王家を四親王家と呼ぶ。江戸時代、四親王家は皇統の備えとして考えられ、皇位継承の候補であった[12][10]。なお、世襲親王家の当主を継承しない皇族は、原則として入寺か公家との養子縁組、女性皇族の場合には婚姻の道をたどった[10]。 明治時代になると、明治22年(1889年)に公布された皇室典範によって永世皇族制が採用され、世襲親王家の制度は廃止された[13]。四親王家についても、その他の宮家と同様、男子に恵まれない場合は断絶することとされ、桂宮は明治14年(1881年)、有栖川宮は大正2年(1913年)にそれぞれ断絶した。また、あわせて親王宣下の制度も廃止されたため、伏見宮・閑院宮の宮号の継承者の身位も、親王ではなく王となった。両宮家は、敗戦後の昭和22年(1947年)、GHQの指令により皇籍離脱した。 世襲親王家(四親王家)
世襲親王家系図世襲親王家系図
世襲親王家出身の天皇脚注
参考文献
関連項目Information related to 世襲親王家 |