中御門天皇
中御門天皇(なかみかどてんのう、 1702年1月14日〈元禄14年12月17日〉 - 1737年5月10日〈元文2年4月11日〉)は、日本の第114代天皇(在位: 1709年7月27日〈宝永6年6月21日〉- 1735年4月13日〈享保20年3月21日〉)。諱は慶仁(やすひと)。幼名は長宮(ますのみや)。 東山天皇の第五皇子。母は内大臣櫛笥隆賀の女で東山典侍・櫛笥賀子(新崇賢門院)。 追号の「中御門」は、平安京大内裏の門の一つである待賢門の別称に因む(ただし、中御門天皇が誕生した1702年時点で、待賢門を含めて平安京大内裏は既に荒廃している)。 生涯東山天皇には櫛笥賀子が産んだ一宮・二宮・寿宮(四宮にあたる)と冷泉経子が産んだ三宮がいた。一宮・二宮が早世したこと、三宮が天皇の両親である霊元上皇と松木宗子に寵愛されていたことから、三宮が次期皇位継承の有力者とみられていた。しかし、三宮の本当の父は天皇の弟である京極宮文仁親王だという噂も流れていた(『基熙公記』元禄13年3月18日条)。政務の実権を巡って両親と確執のあった東山天皇は元禄13年(1700年)3月に寿宮が誕生すると前関白近衛基熙と相談の上、霊元上皇の反発を無視して三宮を円満院門跡に入れることにして江戸幕府の了承を得た。ところが、元禄14年(1701年)11月に寿宮が早世してしまう。このため、一旦皇位継承問題は白紙に戻るかに思われたが、翌月になって懐妊中だった櫛笥賀子が五宮にあたる男子を生んだのである。男子は長宮と呼ばれ、寿宮に代わる次期皇位継承者として大切に育てられていたが、元禄16年(1703年)には早くも江戸幕府に長宮を次の皇位継承者にすることに対する同意を得ようとしている。宝永3年(1706年)3月に娘の熙子の招待を受けて江戸に下向した近衛基熙が娘婿である徳川将軍家世子徳川家宣と事前に相談したことが幸いして、宝永4年(1707年)2月に江戸幕府の同意を受けることになった[1]。 宝永4年(1707年)3月22日に長宮が儲宮に定められたことが公式に発表されると、4月29日には親王宣下が行われて「慶仁」の御名が定められ、宝永5年(1708年)2月16日には立太子が行われた。東山天皇は早急に譲位を行って自らが院政を行って父の霊元上皇の政治的影響力を削ぐ方針であり、10月には将軍徳川綱吉に来年には譲位する旨を伝えた。綱吉は11月になって来年の譲位を了承する老中奉書を朝廷に送付させるが、宝永6年(1709年)1月には綱吉が急死してしまう。そのため、綱吉の養子(実際には甥)である家宣に対する将軍宣下と慶仁親王への譲位のどちらを優先すべきか、という新たな問題が発生した。武家伝奏と京都所司代による公式の朝幕交渉と並んで、朝廷側の近衛基熙と幕府側の間部詮房の間でも秘密交渉が持たれた。幕府は今上(東山天皇)在位中の将軍宣下を希望していたが、同時に家宣が綱吉の喪に服している期間の宣下は問題があるという考え方であった。家宣の義父で故実に詳しい基熙は詮房に対し、服忌令の規定はあるものの家宣が養子になった経緯から「御忌五十日」「御服百五十日」が穏当であり、御忌が過ぎれば将軍宣下に差支えはないという見解を示し、この見解を元に家宣が五十日の御忌を経た後に将軍宣下を受け、その後に譲位が行われることになった。その後関連儀式との兼ね合いから、東山天皇から徳川家宣への将軍宣下は5月1日に、東山天皇から慶仁親王への譲位は1か月余り後の6月21日に実施されることになった[2]。 宝永6年(1709年)6月、東山天皇から譲位されて即位。9歳で即位したため、はじめ父の東山上皇が院政を行うが、同年12月に上皇が、同月に母の櫛笥賀子も崩御している。このため、祖父の霊元上皇が復帰して院政を行った。また、母方の祖父の櫛笥隆賀夫妻が15歳になるまで御所内に部屋に与えられて養育に関与した。このため、成人後も天皇の信任が厚い櫛笥夫妻の政治的影響力が後々まで強く残され、外戚の天皇に対する影響力をいかに抑制していくかが後々の政治的課題となった[3]。 在位期間は、第6代将軍家宣から第8代の吉宗にかけての時代に相当する。この時代の幕府との関係は比較的良好で、弟にあたる直仁親王が閑院宮家を創設し、さらに霊元上皇の皇女八十宮吉子内親王を徳川幕府7代将軍家継の元へ降嫁させる話も出ていた。しかし、家継の急死で沙汰止みになっている。 享保14年(1729年)には将軍吉宗自ら注文した交趾(ベトナム)広南産の象の「拝謁」を霊元上皇とともに受けている。この際、象が無位無官であるため参内の資格がないとの問題が起こり、急遽「広南従四位白象」との称号を与えて参内させたと江戸名所図会に記載されているが、烏丸光栄の『光栄卿日記』や三条西公福の『日記』など18世紀の史料ではいっさい言及されず、『江戸名所図会』も象の来日より100年経った記述であり、叙位については疑問視する意見もある[4]。 拝謁した象は前足を折って頭を下げる仕草をし、初めて象を見た天皇は、
と感銘を和歌に表している。 享保20年(1735年)3月、桜町天皇に譲位し(在位27年)、元文2年(1737年)5月10日に36歳で崩御した。 人物天皇は朝廷の古儀に関心を深めて研究を進め、『公事部類』の撰著を残した。また、笛や和歌・書道に秀で、特に笛はキツネが聴きに来るほどの腕前であったとの逸話が残っている。 ちなみに、天皇の側近であった広橋兼胤の日記によれば、天皇は十二支の巳に縁があり、生年が巳年というだけでなく、崩御したのが巳年巳月巳日巳刻であったという。 系譜
系図
中御門天皇の皇統は玄孫にあたる欣子内親王(曾孫にあたる後桃園天皇の唯一の子女)が、傍系(弟の閑院宮直仁親王の孫)にあたる光格天皇の中宮となって、温仁親王と悦仁親王(何も中御門天皇の来孫)を産んだことにより、欣子内親王を介して女系の血も受け継ぐものと思われていたが、2親王とも嗣子なく、寛政12年(1800年)と 文政4年(1821年)にそれぞれ薨去したことにより途絶えてしまう(欣子内親王は二度と子を産むことなく、弘化3年(1846年)に崩御)。現在の皇室まで続く皇統は、光格天皇の典侍である勧修寺婧子が産んだ仁孝天皇(温仁親王の異母弟かつ悦仁親王の異母兄)が継いだ。 后妃・皇子女
在位中の元号陵・霊廟陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 脚注
参考文献
関連項目
|