清寧天皇(せいねいてんのう、旧字体:淸寧󠄀天皇、允恭天皇33年? - 清寧天皇5年1月16日)は、日本の第22代天皇(在位:清寧天皇元年1月15日 - 同5年1月16日)。『日本書紀』での名は白髪武広国押稚日本根子天皇。諱は白髪(しらか)。
概略
大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)の第三皇子。母は葛城韓媛(かつらぎのからひめ)。雄略天皇23年8月、大泊瀬天皇崩御。吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子が権勢を縦(ほしいまま)にしようと大蔵を占拠したため、大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させる(星川皇子の乱)。翌年正月に即位。
即位2年、皇子がいないことを気に病んでいたところ市辺押磐皇子の子である億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟が播磨で発見されたと報告を受ける。翌年に天皇のはとこに当たる二人を宮中に迎え入れ億計王を東宮、弘計王を皇子とした。即位5年正月に崩御。
名
- 白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと) - 『日本書紀』、和風諡号
- 白髪大倭根子命(しらかのおおやまとねこのみこと) - 『古事記』
- 白髪皇子(しらかのみこ) - 『日本書紀』
- 白髮命(しらかのみこと) - 『古事記』
漢風諡号である「清寧天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。
事績
星川皇子の乱
御名の「白髪皇子」の通り生来白髪であったため父帝は霊異を感じて皇太子にしたという。白髪皇子は末子であり、異母兄には吉備稚媛の子の磐城皇子と星川皇子がいた。吉備稚媛は大変美しく大泊瀬天皇(雄略天皇)が吉備上道臣田狭から略奪して得た妃だったが天皇は今わの際に妃と子を警戒していたらしく、とりわけ星川皇子の性格を問題視して皇位簒奪を防ぐように大伴室屋と東漢掬直(都加使主)に遺詔した。
大泊瀬天皇の懸念通り、吉備稚媛にそそのかされた星川皇子は反乱を起こして大蔵を占領した。室屋と掬は大蔵を軍兵で取り囲んで放火。星川皇子と吉備稚媛、さらには吉備氏の重鎮をまとめて焼き殺した。吉備本国の上道臣は星川皇子を救おうと船師(ふないくさ)40艘を率いて来援しようとしたが間に合わなかった。白髪皇子は吉備氏の行動を叱責して上道臣の支配する山部を奪った。
事態が収拾され、室屋は臣・連らを引き連れて神器を皇太子に奉った。
億計と弘計の発見
即位した太子であったが、子を望めず後継者がいないことに悩まされていた。
即位2年、大泊瀬天皇(雄略天皇)が即位前に暗殺した市辺押磐皇子の子で行方不明になっていた億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟が播磨で発見される。白髪天皇はこれを非常に喜び、天がこの二人を恵んでくださったのだと言って勅使を立て明石に迎えに行かせた。そして二人を宮中に迎え入れて皇子と認め、億計皇子を太子に立てた。
即位5年1月、天皇は崩御。『水鏡』に41歳、『神皇正統記』に39歳という。しかし太子は弟の弘計皇子に皇位を譲ろうとし、弟も兄に譲ろうとしたためこの年に皇位の空白ができた。やむなく二人の姉である飯豊青皇女が執政したが11月に薨去。ここに至り弘計皇子は皇位を受け入れた(顕宗天皇)。
なお『古事記』では二皇子の発見は天皇崩御後の出来事としている。『古事記』によると顕宗天皇は雄略天皇陵の破壊を兄に命じたが、清寧天皇陵の破壊は命じていない。
系譜
后妃・皇子女
后妃なし、従って皇子女もなし。
年譜
『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである[1]。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。
- 允恭天皇33年?
- 雄略天皇22年
- 雄略天皇23年
- 7月、天皇が病気になり政務をゆだねられる
- 8月、父帝崩御。それに伴い吉備稚姫と星川御子が起こした反乱を鎮圧
- 清寧天皇元年
- 清寧天皇2年
- 2月、白髪部を定める
- 11月、市辺押磐皇子の子である億計と弘計を発見
- 清寧天皇3年
- 清寧天皇5年
皇居
都は磐余甕栗宮(いわれのみかくりのみや、奈良県橿原市東池尻町の御厨子神社が伝承地)。
陵・霊廟
陵(みささぎ)の名は河内坂門原陵(こうちのさかどのはらのみささぎ)。宮内庁により大阪府羽曳野市西浦6丁目にある「白髪山古墳」に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。墳丘長112メートルの前方後円墳である。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
考証
記紀ともに后妃なし、皇子女なしとあり在位期間は4年間しかなく年齢不詳。『日本書紀』にある執政記事は二皇子の発見を除いて全て隋書高祖紀などからの引用であり、実際に行政を行った記録は全く無い。
存在感の大変薄い天皇であるため、実在や即位を疑う説がある[2][3]。
脚注
関連項目
外部リンク