御称号(ごしょうごう)とは、名詞「称号」に接頭辞「御」がついたもので、日本の特定の皇族に与えられる、主に幼少時の呼び名を指す。これは宮号・宮家としての「宮」とは別のものである[注釈 1]。
概要
発祥
古代(奈良時代以降)において、皇族の居所であった「○○宮」が転じ、皇族本人を指す尊称となった[1]。
幼少期に「○宮」の称号を付与する慣習が、いつ頃から始まったのか定かでないが、中世には既に定着していたようである[要出典]。やがて、屋敷や荘園が世襲されるようになると、御称号もまた世襲されるようになり、後の宮家の始まりとなった。
宮家の制度が定着して以降も、個々の皇族は出生時に称号を名乗り、宮号の継承又は出家等をするまでの間、諱にかわって御称号をもって名乗る運用がなされた。
近現代における運用・用例
運用
近現代においては、御称号が与えられるのは天皇の子女又は皇太子の子女のみ(いずれも親王・内親王)に限定して付与されている。また、皇族男子には主に成人後に宮号が授与され、皇族女子は皇族と婚姻して妃(親王・王妃)となるか、又は降嫁により姓を得ることから、実質的に幼少時~若年期に用いられる呼称となっている。
1889年(明治22年)制定の皇室典範(いわゆる旧皇室典範)及び1947年(昭和22年)制定の皇室典範(現行)のいずれにも、御称号(及びお印)について明文化された定めはない。
御称号が付与される皇族は、出生時に諱(名前)と称号が、宮内省/宮内庁の告示で法的にも定められ、『官報』に掲載される。例は次の通り。
- ※引用註:()内は現代かな遣い・算用数字に改め、句読点を補ったもの
- 明治34年 宮内省告示第八号
- 四月二十九日午後十時十分降誕アラセラレタル親王御名ヲ裕仁ト命セラレ迪宮ト称シ奉ル
- 明治三十四年五月五日 宮内大臣 子爵田中光顕
- (4月29日午後10時10分降誕あらせられたる親王、御名を裕仁と命ぜられ、迪宮と称し奉る)
御称号は、通常、名+身位と同時に用いることは少ない。用例として次のようなものがある。
- 『官報』においては、原則として「○宮」又は「○○親王/内親王」と記されており、同時には用いていない。
- 明治時代には皇孫である「迪宮」「淳宮」「光宮」を御称号で呼称している記事見出しもある。
- 昭和時代(大日本帝国憲法下)には皇女である「照宮」「孝宮」「順宮」を御称号で呼称している記事見出し(本文は名+身位のみ)もある。
- 史上初めて皇子女として学習院に通学した、昭和天皇第一皇女の照宮成子内親王の場合、学習院においても、また自署でも「成子内親王」と記され、御称号を冠していない[2]。
- 今上天皇第一皇女の敬宮愛子内親王は、2006年(平成18年)4月の学習院幼稚園入園式において「敬宮愛子」の呼称が用いられたと報じられた[3]。[4]。女子中等科卒業時に公表された作文の記名も「敬宮愛子」だった[5]。
上記のように、御称号と御名を並べた表記は、公的な文書では確認できないが、報道や教育の場では確認できる。
愛称としての用例
東久邇宮稔彦王が記した『東久邇宮日記』では、終戦前後の時期(1945年/昭和20年)においても自身の妃聡子内親王を「泰宮」、嫡男盛厚王の妃成子内親王を「照宮」と記しており、成人・婚姻後も長く愛称としても用いた用例もある。
一覧
古代
中世
近世
近世(江戸時代)においては次のとおり[6]。
近現代
参考文献
脚注
注釈
出典
関連項目
脚注