称号:親王妃
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敬称 |
常陸宮妃華子殿下 Her Imperial Highness Princess Hitachi |
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正仁親王妃 華子(まさひとしんのうひ はなこ、1940年〈昭和15年〉7月19日 - )は、日本の皇族。元華族。身位は親王妃。敬称は殿下[2]。お印は石南花(しゃくなげ)。勲等は勲一等宝冠章。旧名は津軽 華子(つがるはなこ)。皇室会議議員。第126代・今上天皇(徳仁)の叔父である常陸宮正仁親王の妃。伯爵・津軽義孝の第4女子であり、戦後に皇室に嫁いだ妃の中で唯一の旧華族家出身者である。宮邸は、東京都渋谷区東にある常盤松御用邸。
略歴
1940年(昭和15年)7月19日、東京府東京市淀橋区(現:東京都新宿区下落合)の津軽伯爵邸にて華族・津軽義孝伯爵令嬢として誕生。母の久子は毛利元雄子爵令嬢。姉に泰子、実枝子、明子がいる。
戦時中のため休園していた女子学習院幼稚園には入園せず、1947年(昭和22年)に新制の学習院初等科に入学。1953年(昭和28年)、学習院女子中等科に入学し、1956年(昭和31年)、同高等科に入学。1961年(昭和36年)3月、学習院女子短期大学(当時)文科英語専攻を卒業。
1961年(昭和35年)から妃の選考が本格化。皇后良子(当時)の「気心の知れた近間の人」という強い希望から、本人・実家に加え血縁上の問題が無いとなると、大変な難航を極めた。津軽華子も婿を取るであろうと言う予測から、候補から外れていた。1963年(昭和38年)、香淳皇后や常磐会(学習院女子中・高等科の同窓会)の強い希望から旧華族の華子が強く推薦され、正仁親王の学習院研究室にて初顔合わせ。1964年(昭和39年)2月20日、伯父の徳川義寛侍従(元男爵)市谷邸で見合いをする。この一度の見合いを経て、同年2月28日に皇室会議で満場一致で婚約内定。2月22日に津軽家が縁談を受諾し同年4月14日に納采の儀を経て婚約が成立した。同9月30日に結婚の儀を行い、沿道には約5万人が集まり祝福した。同日に常陸宮家が創設され渋谷区常磐松町(現:東)に常盤松御用地内の常陸宮邸へ転居。
1989年(平成元年)2月24日に、内閣の主催で行われた昭和天皇の大喪の礼では、欠席した皇太后(香淳皇后)の名代を務め、席次は天皇、皇后に続き皇太子より上位の第3位だった。2007年(平成19年)9月16日から現在まで皇室会議の議員を務めている[3]。
日本赤十字社名誉副総裁のほか、日本いけばな芸術協会、日本動物福祉協会、日本馬術連盟、日本・ラテンアメリカ婦人協会の名誉総裁職に就いている。
2016年8月7日、同年7月16日に両側変形性股関節症の手術のため東京都世田谷区の日産厚生会玉川病院に入院していた華子が同日午後、退院したと発表した。人工関節に入れ替える手術を無事に終え、院内でリハビリを続けていた。また同年の9月9日、名誉総裁をつとめる日本いけばな芸術協会主催の「日本いけばな芸術北海道展」(北海道札幌市)の開会式に退院後の初公務として出席した。
年譜
生家・津軽伯爵家
実父は尾張徳川家の出身で、弘前藩藩主津軽家の養子となった伯爵・津軽義孝。母は、長州毛利家の支藩長府藩主家出身の子爵・毛利元雄の長女・久子。華子はその四女(末子)として生まれた。有栖川御流の伝承者の一人である。
高松宮妃喜久子のはとこ姪にあたる。また、義姉・池田厚子の夫・池田隆政ははとこにあたる。
ダイエー創始者の中内㓛は遠戚(華子妃の姪・山田るみが中内㓛次男・正の妻)。
系譜
栄典・称号
勲章
日本
外国
名誉役職
翻訳活動
2匹の犬を飼っている愛犬家であり、動物が主役の童話について翻訳も手がけている。華子妃が翻訳した絵本5冊の印税は、社団法人日本動物福祉協会に寄付されている。いずれも国土社で刊行。
- 『しょうぼう犬ドット』リーザ・デジミニ作(2005年)
- 『ハニーが盲導犬になるまで』キャロライン・アーノルド作(2000年)
- 『せかいでいちばんおりこうないぬ』アニタ・ジェラーム作(1997年)
- 『ぼくじゃないよ ジェイクだよ』アニタ・ジェラーム作(1996年)
- 『89番めのネコ』エレノア・ニルソン作(1993年)
画像
脚注
外部リンク
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