坂本 伊久太(さかもと いくた、1887年(明治20年)6月17日 - 1974年(昭和49年)1月26日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。位階勲等は従三位勲二等。
経歴
熊本県出身。1908年(明治41年)11月、海軍兵学校第36期を卒業し、1909年(明治42年)1月に海軍少尉に任官した。「敷島」「秋津洲」各分隊長などを経て、1916年(大正5年)6月に海軍水雷学校高等科学生となった。その後、「薩摩」分隊長、海軍水雷学校教官兼分隊長を経て、1919年(大正8年)12月に海軍大学校甲種第19期学生となり、1920年(大正9年)12月に海軍少佐に進級した。1921年(大正10年)12月に「栗」駆逐艦長に着任し、1922年(大正11年)12月には第1水雷戦隊参謀に転じ、さらに第1艦隊参謀兼連合艦隊参謀、海軍水雷学校教官兼海軍砲術学校教官を歴任した。1924年(大正14年)12月に海軍中佐に進級し、第2水雷戦隊参謀、海軍省教育局局員、第5駆逐隊司令を務めた。
1930年(昭和5年)12月1日、海軍大佐進級と同時に「鬼怒」艦長に着任した。1931年(昭和6年)12月に海軍水雷学校教頭に転じ、1933年(昭和8年)11月に「衣笠」艦長、1935年(昭和10年)11月に呉防備戦隊司令官と歴任した。1936年(昭和11年)11月1日に第3水雷戦隊司令官に着任し、12月1日に第2水雷戦隊司令官に転補されると同時に海軍少将に進級した。1937年(昭和12年)12月に呉警備戦隊司令官に転じ、1938年(昭和13年)4月に佐世保海兵団長を経て、1939年(昭和14年)11月には海軍水雷学校長に着任し、1940年(昭和15年)11月に海軍中将に進級した。1941年(昭和16年)9月1日に鎮海要港部司令官に親補され、同年11月20日に鎮海要港部が鎮海警備府に改編されたことにより、同日より鎮海警備府司令長官となった。1942年(昭和17年)9月15日に軍令部出仕となり、12月15日に待命、12月21日に予備役に編入された。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]。
年譜
脚注
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」69頁。
参考文献