城戸禮
貸本を中心とするベストセラー作家として人気を得た。 (きど れい、1909年11月26日 - 1995年8月11日)は日本の小説家。「城戸礼」表記もある。生涯東京の牛込区(現在の新宿区)に生まれる。日本大学経済学部の在学中は、野球、ラグビー、ホッケーなどスポーツに熱中。やがて城戸シュレイダー名義で作家活動をはじめた。デビュー作は『新青年』1931年2月号に掲載された「決闘」[2]。作家となったきっかけのひとつとして、城戸は腹膜炎で70日ほど入院した際に読書に熱中した経験をあげている[3]。日本大学を卒業後は様々な職業を経験したのち、会社に勤務しつつ執筆を続ける。 多作家として知られ、多いときでは月に原稿用紙600枚〜700枚を執筆した。戦中もユーモア小説を発表し、戦後は『読物と講談』の復刊第1号から第4号までのすべての作品を村上元三、谷屋充とともにさまざまな筆名を使って執筆するなど、同誌の主力作家として活躍した。当時の筆名としては原健、原健二、原健次、高田一郎、弘田法夫、姫野譲二、ジェン・ウィットモアー、加藤静子などが知られている[4]。また1950年頃からは『青春タイムス』を舞台に後に得意分野となるアクション性の高い作品を次々に発表[注釈 1]、ハードボイルド派のさきがけとなった。その後は貸本に活躍場所を移し、貸本文化が衰退した後も大衆小説の第一線で活躍、亡くなる直前までユーモア小説やアクション小説を書きつづけた。 1964年には「全国重症心身障害児(者)を守る会」の発起人にもなった。 作品最も成功したのが、『地下鉄三四郎』にはじまる竜崎三四郎シリーズであり、晩年まで書き続けられた。旧作が再刊された際は、主人公の名前を竜崎三四郎に統一するというシリーズ化の編集も行なわれている[5]。また剣崎竜二[注釈 2]を主人公とするアクション小説『日本拳銃無宿』は赤木圭一郎主演の『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』として映画化された。また『探偵令嬢』は「それ行け名探偵」としてNHK少年ドラマシリーズでドラマ化された。さらに古希を過ぎた1979年にはこれまでのユーモア、明朗アクション、ハードボイルドの各分野を集大成した「刑事シリーズ」を開始し[6]、85歳にして発表した『勇猛ダイナミック刑事』が遺作となった。 ノンフィクションにおいても『風よこの灯を消さないで』がベストセラーとなり、韓国語にも翻訳されている。家族との生活を描いたこの著書には、城戸の青年時代についての回想も若干あり、自伝的な内容を持つ。 城戸禮と城田シュレーダー城戸禮が城戸シュレイダー名義でデビューしたのと同じ時期に『探偵』『犯罪実話』『犯罪公論』などの〝エログロ犯罪雑誌〟に海外を舞台とするエキゾチックな探偵小説や秘境探検小説を書いていた城田シュレーダーという作家がいた。この城田シュレーダーについてミステリー文学資料館編『幻の探偵雑誌⑨「探偵」傑作選』(光文社文庫)では「確認はされていないが、戦後、大衆小説作家として活躍した城戸禮と同一人物と思われる」としている[7]。しかし、大衆文学研究家の末永昭二は1933年に29歳で亡くなった「シドニー・シユレダー」なる日独混血の青年がいたとして、このシドニー・シユレダーこそは城田シュレーダーではないかとしている(末永によれば、城田作品は基本的に日独混血の「城田(しろた)青年」が主人公=語り手になっており、その城田青年のプロフィールとシドニー・シユレダーのプロフィールが相当程度一致するという)[8]。 城田シュレーダー名義で発表された最初の作品は『探偵』1931年9月号の「宝石師」で、末永の調査によれば、その後、『犯罪公論』1933年12月号の「横浜狒々御殿」まで27作品が確認できるという[9]。しかし、「昭和九年以降、シュレーダーは忽然と姿を消す」[8]。シドニー・シユレダーが亡くなったのは1933年(昭和8年)秋とされるので、シドニー・シユレダーこそは城田シュレーダーと考えるならば、1934年(昭和9年)以降、城田シュレーダー名義の作品が書かれていないことの説明はつく。しかし、その場合、城戸禮と城田シュレーダーは別人ということになるが、城戸禮が城戸シュレイダー名義でデビューしたのも1931年。同じ年に全くの別人がわずか一字違いのペンネームでデビューすることの不自然さを考えるならば別人説は説得力を欠く状況で、末永は「城戸とシドニーがどこかで出会っていて、何らかのかたちで協力関係を築いていたのだとしたら……」としているものの、それを裏付けるには至っていないという[8]。 著書
映画化作品
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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