堀場雅夫
堀場 雅夫(ほりば まさお、1924年〈大正13年〉12月1日[2] - 2015年〈平成27年〉7月14日)は、日本の実業家。株式会社堀場製作所創業者および同社最高顧問。 経歴京都帝国大学理学部教授の堀場信吉の長男として京都市に生まれる。京都教育大学附属京都小学校・京都教育大学附属京都中学校(現:京都教育大学附属京都小中学校)[3]、旧制甲南高等学校(現:甲南大学)を経て、1946年(昭和21年)京都帝国大学理学部物理学専攻卒業。物理学者を志したが、在学中の1945年(昭和20年)に太平洋戦争が日本の敗戦に終わると、堀場の指導教授であった荒勝文策が日本の原子力爆弾開発の中心人物であったために、京大の原子力核実験施設はGHQによってすべて粉々に解体され、研究の道に進むことを断念する[4]。 自前で研究施設を創るために1945年(昭和20年)10月、堀場無線研究所を創業[5]。これは1953年(昭和28年)1月設立の現在の堀場製作所へとつながることから、学生ベンチャーの草分け的存在とされる。 自身を「あきらめの早い人間」と規定し、経営においては「飽き性こそが大切」と強調する。これはベンチャー経営者として、常に時代の情勢や市場の動向と切り結び、売り上げを伸ばし、利益を上げるための資質であると分析する[1]。大浦政弘(のち堀場製作所社長)が自動車排ガス測定装置を堀場の断りなしに製作した際には「死刑に値します」と激怒したが、それが売れるとなると主力商品とする点は、気持ちを経営感覚で切り替えられる代表例とされる[6]。 1978年(昭和53年)、53歳で代表取締役社長を辞し、代表取締役会長職に退く。堀場は「人生の能力・知力・経験・体力は全部を掛け合わせて40代がピークであり、50代になるとそれが落ちてきてしまう。そこで50歳になったら経営者を退き、後継者(現役)は40代がいい」と、「社長50歳定年制の実行」を1971年の大阪証券取引所・京都証券取引所への上場が実現した際に宣言する。そして目標の50歳から3年が経過した1978年に堀場は創立25年記念式典で正式に引退を表明。「ワンマン社長の首を斬るのは自らしかない。この機会をとらえてかねてからの考えを実行した」と、引退について述べている[7]。 引退後は財団法人京都高度技術研究所 (ASTEM) の最高顧問、日本新事業支援機関協議会 (JANBO) 会長、京都商工会議所の副会頭、京都市ベンチャー企業目利き委員会の委員長、株式会社京都ニュートロニクス監査役などを務め起業家の育成に力を注いでいた。
受賞歴
現職
書籍著書
関連書籍
出演テレビ番組
参考文献
脚注
外部リンク
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