墨子墨子(ぼくし、拼音: )は、中国戦国時代に活動した諸子百家の墨家の開祖、墨 翟(ぼく てき、拼音: 、紀元前470年頃 - 紀元前390年頃[1])の尊称。およびその人物に仮託された書物の題名。平和主義・博愛主義を説いた。中国の科学技術史の先駆者にも位置付けられる[2]。 墨翟墨翟の素性には謎が多く、「墨」が姓なのかについても諸説ある[3][4]。「墨」は綽名で姓は不明とも[4]、「墨」は氏で姓は「子」ともされる。 出身地に関しても、魯・宋・楚など諸説あり、中華民国初期にはインド人説まで提唱された[5]。 「墨」という姓から、墨(すみ)を頻繁に扱う工匠・土木業者だった、入れ墨を施された罪人だった、あるいは褐色の肌だった、など諸説ある。司馬遷『史記』孟子荀卿列伝では「蓋し墨子は宋の大夫なり」(恐らく墨翟は宋の高官であろう)として憶測の文章になっており、前漢から早くも謎多き人物だったようである。 墨翟は、当初は儒学を学ぶも、儒学の仁の思想を差別的な愛であるとして満足しなかった。そこで、無差別的な愛を説く独自の思想を切り拓き、一つの学派を築くまでに至った。一方で、その平和主義的な思想は、軍拡に躍起になっていた諸侯とは相容れず、敬遠されがちであった。 墨翟の死後、墨家は禽滑釐・孟勝・田譲に導かれて一大勢力となるが、最終的に秦による統一までには消滅した。 『墨子』名目上の著者は墨翟だが、実際は墨翟本人よりも弟子たちによって、学派全体の思想変遷や派閥対立を伴いながら、徐々に作成された[6]。全53篇が現存しているが、本来はもっとあり、一部の篇が散逸した姿と推定される。
主な思想以下が、『墨子』に伝えられる墨家の十大主張、通称「十論」である。全体として、儒家に対抗する主張が多い。また、実用主義的であり、秩序の安定や労働・節約を通じて人民の救済と国家経済の強化をめざす方向が強い。論の展開方法としては、比喩や反復を多用しており、一般民衆に理解されやすい主張展開が行なわれている。この点、他の学派と異なった特色を有する。
逸話墨翟の逸話として、『墨子』公輸篇の次のような説話がある。 あるとき楚の王は、伝説的な大工公輸盤の開発した新兵器雲梯(攻城用のはしご)を用いて、宋を併呑しようと画策した。それを聞きつけた墨翟は急遽楚に赴いて、公輸盤と楚王に宋を攻めないように迫る。宋を攻めることの非を責められ困った楚王は、「墨翟が公輸盤と机上において模擬攻城戦を行い、墨翟がそれで守りきったなら宋を攻めるのは白紙にしよう」と提案する。机上模擬戦の結果、墨翟は公輸盤の攻撃をことごとく撃退し、しかも手ごまにはまだまだ余裕が有った。王の面前で面子を潰された公輸盤は、「自分には更なる秘策が有るが、ここでは言わないでおきましょう」と意味深な言葉を口にする。そこですかさず墨翟は「秘策とは、私をこの場で殺してしまおうということでしょうが、すでに秘策を授けた弟子300人を宋に派遣してあるので、私が殺されても弟子達が必ず宋を守ってみせます」と答え、再び公輸盤をやりこめた。一連のやりとりを見て感嘆した楚王は、宋を攻めないことを墨翟に誓った。こうして墨翟は宋を亡国の危機から救った。それにもかかわらず、楚からの帰り道、宋の城門の軒先で雨宿りをしていた墨翟は、乞食と勘違いされて城兵に追い払われてしまった。 後世の受容→「zh:墨子_(书) § 重要版本」、および「諸子百家 § 後世の受容」も参照
中国秦漢から明末まで、『墨子』が顧みられることはほとんどなかった。わずかな受容例として、王充『論衡』、『孔叢子』詰墨篇、魯勝『墨弁注』、韓愈『読墨子』、黄震『黄氏日鈔』などが挙げられる[7]。葛洪『神仙伝』などでは、墨翟は錬丹術や神仙術に通じた仙人とみなされた[7]。 明末に出版文化の発達により複数の刊本が出た後、清朝考証学者の王念孫・孫星衍・汪中・畢沅・孫詒譲らの諸子学において、『墨子』の校訂整理や再評価が行われた。とくに畢沅は、『墨子』の注釈書(通称『経訓堂本墨子』)を著した[8]。孫詒譲はそれを補って『墨子間詁』を著した[8]。 清末民初の動乱期には、梁啓超や譚嗣同ら変法派の革命思想家に注目された。民国初期には、西洋文化が積極的に摂取される中で、墨子の兼愛や倹約の思想はキリスト教に類似しているとの主張や、墨弁の論理学(中国論理学)や科学的内容への評価が盛んになされた。 1934年、魯迅は上記の公輸篇の説話をもとに、短編小説『非攻』(『故事新編』所収)を著した。 21世紀の中国でも、墨子は中国科学史の源流(「科聖」)として尊重されている[9][2]。2016年、中国で打ち上げられた世界初の量子科学実験衛星は、墨子にあやかって「墨子号」と呼ばれている。 日本平安時代の『本朝続文粋』所収の藤原敦光の文に『墨子』の引用が見られるが、以降長らく目立った受容はなかった[10]。 江戸時代には、1731年に唐本『墨子』が輸入されて以来、多くの漢学者が墨子を論じた[10]。とくに、1757年に秋山玉山校訂の和刻本『墨子』が刊行され、1835年に上記の『経訓堂本墨子』が輸入されて刊行された[8]。この二つに続く形で多くの研究が出た[8]。 明治時代には、高瀬武次郎らが『墨子』の思想をキリスト教や功利主義と類似視する形で研究した[11]。高瀬の研究は上記の梁啓超にも受容された[11]。 戦後には、全釈漢文大系『墨子』の訳者でもある渡辺卓が、以降の研究の基礎を築いた[12]。 1991年には、酒見賢一が墨家を題材とした歴史小説『墨攻』を著した。同作は2006年に日中韓合作で映画化された。 2004年には、当時首相小泉純一郎が、イラクへの自衛隊派遣に関する国会論争において『墨子』の「義を為すは、毀(そしり)を避け誉(ほまれ)に就くに非ず」(正義を行うということは、世間から嫌われず好かれるように振る舞う、ということではない)という言葉を引用して自説を主張した。 新出文献との関係20世紀末から21世紀にかけて、中国では戦国時代頃の竹簡が複数発見された。その中には『墨子』に関する竹簡もあった。例えば、上博楚簡『鬼神之明』は、明鬼篇と同様の鬼神の賞罰について論じている[13][14]。また、上博楚簡『鄭子家喪』は鬼神論について、銀雀山漢簡のいくつかは守城戦などの第五部の内容について、関連する記述を含んでいる[15]。 脚注注釈出典
参考文献※人名順でなく出版年(初出年)順
関連項目外部リンク
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