大弐三位
大弐三位(だいにのさんみ)は、平安時代中期の女流歌人。女房三十六歌仙そして百人一首の歌人として知られる。藤原宣孝の娘。母は紫式部。本名は藤原賢子(ふじわら の かたいこ / けんし)。藤三位(とうのさんみ)、越後弁(えちごのべん)、弁乳母(べんのめのと)とも呼ばれる。 経歴長保3年(1001年)3歳ごろ父藤原宣孝と死別。藤原宣孝と紫式部の結婚生活は3年あまりだった。長和6年(1017年)18歳ごろ、母の後を継ぎ一条院の女院彰子(上東門院)に女房として出仕[* 1]。この間、藤原頼宗、藤原定頼、源朝任らと交際があったことが知られている。その後、関白・藤原道兼の次男・兼隆と結婚、一女の源良宗室をもうけた。これは『栄花物語』「楚王の夢」「大宮の紫式部が娘・越後の弁、左衛門督の子産みたる」の「左衛門督」を兼隆とする解釈である[1]。 ただし、この配偶者を「兵衛督」の誤りとみて藤原公信とする説もある[2]。『今鏡』に良宗の男子・知房が大弐三位の孫とあることによる。公信は娘の生まれた翌年の万寿3年に薨去している。 万寿2年(1025年)、親仁親王(後冷泉天皇)の誕生に伴い、その乳母に任ぜられた。長暦元年(1037年)までの間に東宮権大進・高階成章と再婚、同2年(1038年)高階為家と一女をもうけている。天喜2年(1054年)、後冷泉天皇の即位とともに従三位に昇叙、夫・成章も大宰大弐に就任した[* 2]。 没年は不明であるが、1078年(承暦2年)に開催された歌合へ出詠しており、80歳近いかなりの高齢であるが少なくともこの頃までは存命であることが確認される。 逸話歌や実生活から、母の紫式部と比べ、恋愛の駆け引き上手というイメージを持たれることがある。
作品
百人一首
関連作品
脚注注釈出典 |