太陽 (博文館)
太陽は、博文館が、1895年(明治28年)1月から1928年(昭和3年)2月まで、計531冊発行した、日本初の総合雑誌。大正デモクラシーの世相に乗り遅れて、廃刊した。 歴史日清戦争の勝利が決定的となった1894年12月、博文館は、「日本は世界の大国になったのだから、欧米諸国に負けない総合雑誌を」という趣旨の「太陽発刊の主意」を発表し[1]、翌月『太陽』を創刊した。このとき同社は、既刊の『日本商業雑誌』『日本大家論集』『日本農業雑誌』『日本之法律』『婦女雑誌』を『太陽』誌に、『文芸共進会』『世界文庫』『明治文庫』『逸話文庫』『春夏秋冬』を『文芸倶楽部』誌に、『日本之少年』『幼年雑誌』『学生筆戦場』『少年文学』『幼年玉手箱』を『少年世界』誌に、それぞれ統合している。 編集人(編集主幹)は、年代順に次の通りである。
月刊または半月刊。寸法は、四六倍判、または菊判、または菊倍判。本文約200ページのほか口絵・別冊もあった。初期の発行部数は、(博文館によれば)、10万部に近かった[2]。 記事は、政治・経済・社会・軍事・歴史・工業・宗教・芸術・文学・家庭などにわたり、たとえば第1巻の執筆者は、学者の依田学海・加藤弘之・久米邦武・大内青巒・神田乃武・植村正久・石川千代松・三宅雪嶺・横井時敬・天野為之・志賀重昂・坪井正五郎・大西祝・鳥居竜蔵・姉崎正治、政治家の大鳥圭介・谷干城・金子堅太郎・末松謙澄・小村寿太郎・犬養毅・尾崎行雄・牧野伸顕・近衛篤麿、実業家の渋沢栄一・加藤木重教・巌本善治、作家の福地源一郎・饗庭篁村・戸川残花(戸川安宅)・大和田建樹・坪内逍遙・落合直文・森田思軒・幸田露伴・斎藤緑雨・川上眉山・大橋乙羽・巖谷小波・高山樗牛・樋口一葉・佐佐木信綱・島崎藤村・泉鏡花・与謝野鉄幹などと、多彩だった。 高山樗牛と長谷川天渓は、初期から多くの評論・時評を載せた。樗牛を大町桂月が継いだ。ほかに、加藤弘之の発言集『貧叟百話』(1896 - 1898)、鳥谷部春汀の『人物月旦』(1897 - 1909)、秋月天放の『牛門随筆』(1897 - 1923)、石黒忠悳の談話集『况翁閑話』(1898 - 1899)、上田敏の文芸評論『独語と対話』(1914 - 1915)、江見水蔭の回想記『自己中心明治文壇史』(1926 - 1927)などの評論があった。 久米桂一郎の『新印象派の影響』(1911)、小松耕輔の『欧米音楽界の現況』(1923)など、美術・音楽の紹介もした。 初出の文学作品には、時代順に次などがあった。
1923年の関東大震災後、探偵小説の流行を追い、平林初之輔を編集人に立ててプロレタリア的評論・小説を載せたものの、世に後れ、廃刊した。 ほかの『太陽』誌
脚注
出典参考文献
外部リンク
|