モノレール線(モノレールせん)[1][2][3]は、かつて兵庫県姫路市内で姫路駅と手柄山中央公園にあった手柄山駅の間で運行されていた姫路市交通局の鉄道路線(モノレール)。『鉄道要覧』等には路線名の記載は無く[4]、一般には姫路市営モノレール(ひめじしえいモノレール)、姫路モノレール(ひめじモノレール)などと呼ばれていた。1966年の姫路大博覧会開催に伴って開業したが、営業不振などにより8年後の1974年に休止、1979年に廃止となった。
路線データ
- 路線距離:
- 線路延長: 1,824m(免許区間は姫路 - 手柄山南2.0km[5])
- 営業キロ: 1,630m
- 方式:跨座式(ロッキード式、軌道桁断面幅 900mm)
- 駅数:3駅(起終点駅含む)
- 複線区間:なし(全線単線)
- 電化区間:全線 直流600V(第三軌条方式)[注 1]
- 閉塞方式:なし
- 保安装置:ATS
- 最急勾配: 60‰(約3°26′。山陽電気鉄道本線オーバークロス部の前後)
- 最小半径: 80m(大将軍駅の手柄山方)
- 所要時分: 下り(姫路→手柄山)3分50秒、上り(手柄山→姫路)4分40秒
- 上りの所要時間が50秒も長いのは、60‰の下り勾配を経ての姫路駅進入がATSによる10km/h制限が課されていたため[6]。
[注 2]
歴史
姫路市の戦後復興を指導した石見元秀市長の下、交通混雑の緩和と市勢拡大を目指して、市南部の工業地域や市北部の住宅地域と都心を結ぶ目的で企画された。石見は海外視察で乗車したアメリカのディズニーランドのモノレールの快適さに強く興味を引かれたという[7]。
1966年4月6日から同年6月5日にかけて手柄山で開催された「姫路大博覧会」(以下、姫路博)会場への輸送機関という名目で、姫路駅 - 手柄山駅間を先行開業させた。総工費14億5千万円と8か月の工期を要した[8]。当初は開幕に先立つ4月3日の開業を予定していた[9]が、姫路駅予定地の立ち退き交渉に手間取ったこと[10]、台風や集中豪雨の影響もあって姫路博開幕には間に合わず、会期後半の5月17日になってようやく開業した。これに続けて飾磨・広畑の臨海工業地域まで路線を延ばすことが検討され、さらに市内に環状路線を建設し、日本海側の鳥取まで路線を延伸する壮大な構想が立てられていたという[11]。
しかし、運行距離が短く、終端が山上の都市公園内という立地もあって、姫路博終了後は利用者が激減。開業初年度は402,967人だった利用者数も、翌年(1967年)度には334,517人、翌々年(1968年)度は245,718人と、当初予想の100万人を大きく割り込んだ[12]。輸送密度も毎年300 - 400人台が続き、後年の国鉄特定地方交通線並みに低迷していた。起終点の立地もさることながら、並行する山陽電鉄の姫路 - 手柄間の運賃が1969年まで20円、1974年まで30円[13]だった時期に、姫路 - 手柄山間が100円[14][注 3]という高額な運賃の影響も大きく、「タクシーの方が安かった」[15]とまで言われた。営業係数は開業した1966年で195、翌年以降は400を超える水準で推移し、毎年1億円あまりの資金が姫路市の一般会計から投入され[7]、一部の市民からは「市のお荷物」とまで言われたという[12]。建設費も当初見積もりの7億5000万円[16]から15億円超にまで膨らんでいた[17]。
開業前から革新勢力を中心にモノレール建設反対運動が展開され、1964年7月に反対派はモノレール建設の仮契約が姫路市契約条例に違反するとして監査請求を行い、これが却下されると行政訴訟も提起された。これらは成果を上げることができず1965年4月の市議会でモノレール建設予算が承認されたが、この確執が契機となり石見市政に対する住民の不満や不信感が高まっていく[18][19]。1967年4月の姫路市長選挙において、革新勢力等の支持を受けた吉田豊信が石見を破って当選すると、吉田は直ちにモノレール事業の見直しに着手する。1967年8月30日にモノレール対策審議会が設置されると吉田はモノレールの存廃等について諮問し、審議会は同年10月12日に「モノレールの路線延長は不可能」とする結論を出し、10月24日には「モノレール事業を交通事業として継続することには賛成できない。また観光事業としても成算の見通しはたたない。事業を打ち切るにしても多くの難点がある。目下の事態では運営の合理化を図り、乗客誘致策を講じ、損失を最小限にとどめて経営を継続し、欠損額と創業建設費については一般会計で負担するしか方法はない。」と答申、事実上「打つ手なし」として審議会は解散した[20]。
当時は国からの補助金交付制度がなかったこと[注 4]もあり、累積赤字が膨らみ、また路線も延伸されないまま「乗客増が見込めない」「老朽化による維持修繕費の増大が見込まれる」「特殊な構造のため部品補充が難しい」などの理由により[21]、第一次オイルショック後の1974年にわずか8年で営業休止となり、1979年に正式に廃止された。この営業期間はモノレールでは約1年4か月で休止となったドリームランドモノレールことドリーム開発ドリームランド線の次に短い。1974年4月時点での累積赤字は10億7200万円にも達していた[22]。
廃止後も軌道桁などの設備は、撤去費用や起債の償還等の問題もあり放置されていたが、一部で歩道化など再利用についての検討も行われていた。この間、休止中は実施されていた、保線車両による保守が廃止で取りやめとなった結果、1984年10月13日夜に手柄山駅北方で老朽化した饋電線が800mにわたって落下する事故が発生[22]。このため同年以後は他事業に絡む部分から撤去が開始された。しかし恒久施設として建設された鉄筋コンクリート製橋脚の解体や、大型レッカー車の手配を要する軌道桁の撤去には約20億円もの費用がかかるため、現在でも軌道跡下にビルなどが建っている部分などを中心に橋脚や軌道桁が撤去されずに残っている区間がある。1991年には社会学者の鵜飼正樹が、古代ローマの水道橋をも連想させるこの廃線跡を「現代遺跡」と命名した[23]。
年表
- 1966年(昭和41年)5月17日 - 姫路駅 - 手柄山駅間 (1.6 km) が開業。
- 1968年(昭和43年)
- 1月31日 - 大将軍駅休止。
- 7月21日 - それまでの15分間隔から20分間隔に減便。
- 1974年(昭和49年)4月11日 - 休止[24]。本来は3月31日休止予定だったが、運輸省(当時)からの休止許可の交付遅れで延びていた[25]。さよなら運転は前日4月10日[26]。
- 1979年(昭和54年)1月26日 - 正式廃止。
- 2009年(平成21年) - 展示施設建設の準備としてモノレール車両が移動され、11月15日に公開イベントがおこなわれる。
- 2011年(平成23年)4月29日 - 旧手柄山駅に手柄山交流ステーション開業。
- 2020年(令和2年)9月28日 - 姫路市営モノレール遺構群(旧手柄山駅舎〈現手柄山交流ステーション〉など)が土木学会選奨土木遺産に認定[27][28]。
利用状況
姫路市営モノレール線が営業していた8年間の各年度ごとの輸送・営業実績を下表に記す。輸送量は目標に遠く届かなかった。下表では、各項目の最高値を赤色の背景色で、最低値を青色で表示している[29]。
年度別輸送・営業実績
年 度
|
輸送人員 千人
|
輸送密度 千人/km
|
旅客運賃収入 千円
|
営業収入 千円
|
営業費 千円
|
営業係数 %
|
特記事項
|
1966年(昭和41年)
|
403
|
645
|
32,917
|
33,501
|
65,363
|
195
|
5月17日営業開始
|
1967年(昭和42年)
|
334
|
541
|
21,856
|
22,421
|
91,901
|
410
|
|
1968年(昭和43年)
|
246
|
410
|
21,339
|
22,317
|
78,435
|
352
|
|
1969年(昭和44年)
|
255
|
417
|
22,034
|
22,508
|
100,738
|
442
|
|
1970年(昭和45年)
|
217
|
355
|
17,006
|
17,861
|
82,372
|
461
|
|
1971年(昭和46年)
|
226
|
368
|
19,145
|
20,451
|
85,962
|
420
|
|
1972年(昭和47年)
|
211
|
344
|
17,738
|
19,051
|
90,182
|
473
|
|
1973年(昭和48年)
|
241
|
|
20,192
|
|
|
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『交通年鑑』昭和50年度版には「休止中」としてデータ無し
|
1974年(昭和49年)
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12
|
|
646
|
|
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4月11日休止 『交通年鑑』昭和51年度版には「休止中」としてデータ無し
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駅一覧とその現状
全駅兵庫県姫路市に所在。括弧内は姫路駅からの累計営業キロ。
姫路駅 (0.0km) - 大将軍駅 (0.5 km) - 手柄山駅 (1.6 km)
- 姫路駅
- 姫路駅は仮駅として建設されたため、軌道桁が神姫バスの姫路バスターミナル直前で断ち切れ、終端部に車止めが設けられているだけのシンプルな線路配置で、駅舎も仮設の簡素な物だった。延長時には、大手前通りをまたいで東側に直進する予定であり、これに備えて国鉄姫路駅構内の播但線ホームの北側に正規の駅用地の一部が確保されていた。このためこの地区には現在も旧国鉄用地に食い込むようにして、姫路市有地が存在している。
- 廃線後、駅跡は神姫バスターミナルおよび山陽百貨店新館となった。
- 大将軍駅
- 駅名標は旧字体で「大將軍駅」とされていた物もあった[30]。ローマ字は訓令式(DAISYOGUN)とヘボン式(HIMEJI)が混ぜて使われていた[31]。
- 恒久施設として建設された大将軍駅は、公団高尾アパートなどが入居する高層ビルの3階から4階にかけて吹き抜け構造とされ、1・2階が商業施設、3階部分に軌道が、4階部分にホームが設置されている。5階以上は西日本初の日本住宅公団の集合住宅であった[32]。
- もとは25m幅の道路の中央に5m幅のグリーンベルトを設け、そこにモノレールを敷設する構想であった。ところが当時の建設大臣河野一郎が「道路を他の目的に使うとはけしからん」と言い出したことで、この構想は消えてしまった。そこでこれに代えて20m幅の道路に沿って10m幅の用地を確保し、ここに4階建てに高さを揃えたビルを建設し3階部分にモノレールを通すというアイデアを立てた[7]。実際に建設されたのは大将軍駅のある公団高尾アパートだけだが、これは都市再開発と軌道敷を一体整備し、都心部での導入空間確保と市街地改善を同時に行う工夫として注目された。もっとも大将軍駅は姫路駅に近すぎて歩いた方が早いほどだったため利用客は見込みほど多くなく、開業後2年足らずで営業休止となっている。
- この下層部にはビジネスホテルがあったが後に廃業し、その後は市が倉庫として活用していた。その他の部分は上層部のビルや東側の軌道桁も含めほぼ当時の姿のままだったが、後述の解体工事開始直前の一般公開を例外として一般向けには閉鎖されていた[33]。阪神・淡路大震災後の耐震診断で倒壊のおそれが指摘されたため補強工事が検討されていたが、所有者の都市再生機構はコスト面から補修を断念し、ビルを解体する方針であることを明らかにした[34]。ビル解体を前に2016年8月13日・14日、48年ぶりに一般公開された[35][36][37]。跡地の再開発を見据えてビルの解体工事が行われたが、2017年になり杭基礎として用いていたH形鋼200本あまりの頭部が変形し、掘り出しが困難となっていることが判明。市では杭基礎の撤去を断念し、敷地を当面駐車場にせざるを得なくなるなど再開発計画策定に影響が生じている[38]。
- なお、「大将軍」とはこの駅がある姫路市高尾町と隣の南畝町(のうねんちょう)にかけて存在した小字であり、大将軍神社が付近に現存する。大将軍神社は十二所神社の御旅所で方位神の大将軍を祀っている[39][40]。ほかに延暦年間に播磨国総社に祈願した征夷大将軍・坂上田村麻呂が十二所神社にも祈願し、寄進した田が字の名となったという説もある[41]。
- 手柄山駅
- 姫路博に合わせて整備された手柄山の幾つかの施設と同様に、おとぎの国の城をモチーフとしたようなデザインの建物で、山の斜面に半分埋まるようにして建設されていた。その北側壁面の中心に開口したトンネルの中に軌道と列車が吸い込まれるような構造で、建物に合わせたデザインの円柱形の駅舎が建物南側寄りの屋上にあって、建物本体内部のコンコース階(ホームと検修線の真上に当たる)へはこの駅舎と水族館脇の出入口から出入りするようになっていた。また駅舎の上には360°を見渡せる展望台も設けられていた。この手柄山駅の奥(南側)にはトンネルの出口が存在し、車両はここでスイッチバックして検修線に入っていた。このスイッチバック構造は飾磨方面への延伸を考慮して用意されたものであり、ここに設けられた巨大な可動部を持つポイント機構は、ロッキード式モノレールのものとしては本線用として日本で設置された唯一のものであった。
- 廃線後は南北のトンネル状の出入口が封鎖され、ホームもコンコース部の改札口を壁で塞いで立ち入り禁止とされ、当時の車両は検修線に集められて残っていた[43]。手柄山駅の駅舎は路線が休止された後は長らく営業時ほぼそのままの姿で売店・待合室として利用されていたが、その後建て替えられて姫路市の「緑の相談所」となっている。またコンコース部は、改札口などの設備を撤去して緑の相談所の研修室や多目的ホールに転用された。このホーム内の施設と車両は、人の手や風雨の入らない閉鎖空間にあったため35年の歳月を経ても良好な状態を保っていた。
- 長らく非公開となっていた手柄山駅のホームと車両について、石見元秀の三男・石見利勝が市長となった2003年以降、再公開に向けての検討が進められてきた。まず耐震化工事実施計画委託料が2008年度予算に盛り込まれ[44]、2009年秋には検修線からホーム内に車両のうち2両を移転する作業が行われた。ホームはほぼそのままモノレール展示室に、検修線部分は改修して姫路市立水族館の一部を移転させた水族館新館とし、モノレールと水族館を併せて「昭和レトロ」をテーマとした展示施設へと改装することとなり、2011年4月29日に手柄山交流ステーションとしてオープンした[45][46][47]。また水族館新館は2011年7月2日にオープンした[45]。これに際して、一度封鎖された南北のトンネル状の出入口も、歩廊を設けて交流ステーションの出入口の一つとして再活用されている。水族館脇の出入口は水族館の本館と新館を結ぶ通路として整備され、また旧コンコース部からモノレール展示室に入る事はできなくなっているため、建物屋上(駅舎跡の北隣)に新たにモノレール展示室に直通する出入口が設置された。
システム
跨座式モノレールで、ロッキード式と称された。軌道桁上に一本設置された、当時の新幹線と同じ50Tレール上を鉄車輪で走行する方式で、桁の両側には下部安定輪用の22kgレールが、手柄山に向かって右側に給電用の30kgレールが取り付けられていた。高速走行も可能で一般的な鉄道車両技術とも一定の共通性があり、都市交通機関として発展が期待された。しかし走行時の騒音は、後年日本跨座式として標準化されたゴムタイヤを用いる日立アルウェーグ式に比べて格段に大きく、特に国鉄山陽本線を乗り越えるトラス橋を中心とする鋼製橋梁部分の通過時には、大きな反響音が発生した。システム開発に携わったアメリカのロッキード社は、最終期はモノレール市場そのものから撤退し、日本ロッキード・モノレール社も1970年9月に解散した[22]。これに伴う補修部品の供給難と予算不足で車両、軌道共に保守状態が悪化し、乗り心地も著しく低下した。部品不足を補うため、4両在籍した旅客車のうち1 - 2両を休車として部品の補填を行った。
鉄車輪と鉄軌条を用いるロッキード式は、最高160 km/hまで可能とされた高速走行の利点がある一方、急勾配登坂能力と静粛性の点で不利であり、未来の都市交通の担い手としては、部品供給を絶たれたこの方式の継続使用に合理性は無かった。
ロッキード式は日本国内では他に、小田急電鉄の向ヶ丘遊園モノレールに採用された。こちらは部品を自社工場で製作する技術力と資金力があり、一般鉄道の車両と親和性の高いロッキード式のシステムもあって保守上致命的な問題が長期にわたって発生せず、姫路市営線の廃止後も長く運行されたが、最終的には台車に亀裂が入り代替部品の確保も困難なことから2000年に運行休止となった。
使用車両
開業時に片運転台式の100形101・102、両運転台式の200形201・202の計4両が川崎航空機岐阜工場で製造された。これらは同じロッキード式の小田急500形電車が観光路線向けの「標準I型」と呼ばれたのに対して、より大型の「標準II型」と呼ばれていた[7]。他に内燃式の軌道点検車が1両あった。
アルミニウム合金製の部材を沈頭鋲で組み立てるという、完全に航空機の流儀で設計された軽量セミモノコック構造の流線型車体で、全長15m、全幅2.9m、自重は100形が18t、200形が18.4t。車体前面は曲面ガラスと貫通扉を組み合わせ、100形の連結面と200形には貫通幌が装着された。窓配置は100形がd1D4D11(d;乗務員扉、D:客用扉、D隣接の1枚窓は戸袋窓で幅が約半分、それ以外は約1.5m幅の広窓を採用した)、200形がd1D4D1dである。車内は窓配置に合わせた固定式クロスシートのみという、当時としては贅沢な設計であった。側窓は、常用で約11センチ、非常で約35センチ下降させることができた。天井にはファンデリアが設置され、常時稼働で強制換気を実施した。モノレール特有の非常脱出装備として円筒形の脱出シュートが各車両に備え付けられ、非常時には扉外側につり下げられることになっていた。
電装品は明電舎製の端子電圧300Vの75kW級主電動機を4基搭載、直角カルダン駆動により各台車の各車輪を個別に駆動し、4.0km/h/sという高加速性能を実現した。
台車は川崎車両が製作した、ダイアフラム式空気バネとトーションバーを組み合わせた特徴的な構造の2軸ボギー式で、610mm径の弾性車輪を採用、タイヤのフラット発生が直接乗り心地に悪影響をおよぼすため、自動車によく見られたドラムブレーキが採用された。ブレーキシステムは三菱電機製HSC電磁直通ブレーキで回路構成の簡略化のためか発電制動はなく、減速度は4.0km/h/sである。車輪径が610mmと小型であるため、コンパクトかつ低い車高で完全にフラットな床面構造を実現していた。
姫路博期間中は3両編成で運行されていた。姫路博終了後は200系の単行でも十分な程度の乗客しかいなかったが、万一の故障に備えて2両編成で運行されていた[12]。
政策的特徴
全体構想は一般的な市内交通としての位置付けであったが、開業区間は都心地域と都市公園(手柄山総合公園)を地理的に近づける水平エレベーター(短距離の公共交通機関をエレベーターに例えたもの)としての機能が意識されていた。また手柄山公園の駐車場を利用したパークアンドライド・観光バスアンドライド(観光バスを郊外に置き公共交通機関へ乗り換えること)を実施するなど、非常に先進的な実施事例があった。北部の野里方面、南部の飾磨方面まで延伸する計画もあった[48]。
脚注
注釈
- ^ 『私鉄要覧』『交通年鑑』記載の届出では動力は「電気・内燃」となっている。
- ^ データ出典[5]
- ^ 1966年当時の100円は2020年現在では概ね800円相当である。また、JTBパブリッシング刊の『時刻表復刻版 1967年10月号』によると、当時の国鉄2等運賃で姫路駅から100円で行ける駅(姫路駅から24.1 - 27.0km)は、魚住駅、鶴居駅であった。
- ^ 姫路市営モノレールが廃止された1979年に「都市モノレール建設のための道路整備に対する補助制度」が発足している。
出典
参考文献
- 姫路市(編)『姫路市のモノレールについて』姫路市役所、1963年。
- 『姫路モノレール』姫路市、1965年。
- 「〈特集〉日本のモノレール」『鉄道ピクトリアル』1970年4月号通巻236号、電気車研究会(鉄道図書刊行会)。
- 藤井信夫「日本ロッキードの代表 姫路市営モノレール」同上、pp.35 - 37。
- 宮脇俊三(編著)『鉄道廃線跡を歩くV』JTBキャンブックス、JTB、1998年、ISBN 4-533-03002-5。
- 佐藤信之『モノレールと新交通システム』グランプリ出版、2004年、ISBN 4-87687-266-X。
- 岡田昌彰「ランドスケープ再見(4) 姫路モノレール廃線 夢を語り続ける軌道跡」『土木技術』2008年6月号(63巻6号)、土木技術社、pp.88 - 91。
- 今尾恵介(監修)『日本鉄道旅行地図帳 9号 関西2』新潮社、2009年、ISBN 978-4-10-790027-2、p.47
- 姫路市史編集専門委員会編集『姫路市史』第6巻本編近現代3 平成28年3月30日発行、pp.374-380, 543-547
外部リンク
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営業中 |
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廃止 |
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未成 | |
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関連項目 | |
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鉄道事業法(旧地方鉄道法)・軌道法に拠る路線のみ。★印は施設内路線。*印は期間限定路線。
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