寺西直次
寺西 直次(てらにし なおつぐ)は、安土桃山時代の武将、大名。美濃本田城主。江戸時代初期の加賀藩家老。豊臣家の譜代家臣だったが、関ヶ原後に改易され、前田家臣となった。諱は定時、信乗ともしてある[4]。通称は勝兵衛、初め父と同じ駿河守を称したが、後に備中守と改めた。寺西備中守ともいう。 略歴『尾張志』によると尾州海東郡万馬村[5]の人[6][7]。羽柴秀吉家臣の寺西駿河守の子[4][7]。 父と同じく秀吉に仕え、美濃国本巣郡本田城[8]を与えられた[4]。天正18年(1590年)頃、豊臣家直領の太閤蔵入地の近江国長浜10万石の代官に任命された[4][7]。 文禄元年(1593年)の文禄の役では後備衆の1人として200名を率いて肥前名護屋城に駐屯[9]し、ついで従五位下備中守に叙任された[4]。同3年(1595年)春に伏見城の普請工事を分担した時、すでに知行1万石であった[4]。 慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると遺物・保昌五郎の刀を受領した[4]。 慶長5年(1600年)、直次は伊勢・近江・越前国内に1万石(1万14石とも[10])を領し、関ヶ原の役では、同じ伊勢の桑名城主氏家行広と共に会津征伐に出陣したが、途中で石田三成の挙兵を聞いて桑名城へ帰還した。行広は東西両軍の誘いを断って中立を宣言したが、受け入れられなかったので、止む終えず直次と共に西軍に与することにして、弟の行継と籠城した[11]。また、浅井畷の戦いの後に、小松城に帰還する丹羽長重の援軍として、奥山正之・上田重安らと共に直次の越前の所領の手勢が送られている[12]。 関ヶ原本戦で西軍が敗北した翌日の9月17日、山岡景友の勧めで降伏して城を出た[4]。寺西家は所領没収となり改易とされた。 直次は剃髪して意閑(いかん)と号して放浪したが[4]、前田利長と懇意にしていたことから[10]、慶長6年(1601年)に前田家(加賀藩)に召し抱えられた[4]。能登の鹿島郡津向村[13]に1,500石を与えられた[3]。 慶安2年(1649年)、高齢で亡くなった。享年93[14][7]。次男直武が継いた。 脚注
参考文献
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