小西信八
小西 信八(こにし のぶはち、1854年2月21日〈安政元年1月24日〉 - 1938年〈昭和13年〉7月5日)は、明治から大正にかけての日本の教育者。長らく東京盲唖学校および東京聾唖学校(筑波大学附属聴覚特別支援学校の前身)の校長を務め、盲聾教育の発展に尽力した。 生涯1854年(安政元年)に越後で生まれる。戊辰戦争で長岡城が落ちた時、小西一家は藩主とともに会津・山形まで逃げた。最後にかくまってくれた農家に、小西は終生恩義を感じていたという。1875年(明治8年)、東京師範学校に入学した。卒業後は、千葉県の中学校・女子師範学校を経て、東京女子師範学校で幼稚園教育の実践と諸外国の保育を研究した。 1886年に、文部省直轄となった築地訓盲唖院の専務となり、その後東京盲唖学校長心得を経て校長となる。小西は、カナモジ会で知り合っていた千葉県茂原小学校の石川倉次を熱心に誘って、築地訓盲唖院に引き入れる。ルイ・ブライユの点字を知った小西は、1887年、日本で使える点字の考案を石川に依頼した。ブライユ点字は6点であるが、日本語は文字が多く、石川は8点点字を考えた。しかし、小西は6点点字の考案を求め、1890年11月1日の点字選定会で、石川の案が日本点字として採用されることが決定した。それまで視覚障害者は、普通の文字を突起させたものを触って読むしかなく不便をかこっていたものが、容易に自由に読み書きできる文字を獲得することができたのである。この点字は京都訓盲院でも歓迎をもって迎えられ、その後広く普及することとなる。当時は戦火により失明する軍人が多かったが、小西は校内に失明軍人教習所を開き、中途失明軍人の社会復帰を助けた。 1909年に東京盲唖学校の盲聾分離が実現し、東京聾唖学校と東京盲学校が成立した。東京盲学校を町田則文にまかせ、自らは東京聾唖学校長になる。1925年(大正14年)に東京聾唖学校長を退官する。1938年(昭和13年)逝去、享年84。 妻は長岡藩出身の陸軍中将豊辺新作の姉[1]であり、小西は長岡藩家老の河井継之助と縁戚関係にあった。 年譜
栄典著作
出典参考文献
関連文献
関連項目
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