小野栄重小野 栄重(おの えいじゅう[1]、宝暦13年(1763年) - 天保2年1月26日(1831年3月10日))は、江戸時代の和算家、測量家。通称は捨五郎のち良助(良佐)、字は子厳、号は遅翁[2]。 生涯宝暦13年(1763年)、上野国碓氷郡中野谷(現・群馬県安中市中野谷)の須藤家に生まれる。板鼻宿(現・群馬県安中市板鼻)の「えびや(海老屋)」こと小野家の養子となり跡を継いだ[2]。 武蔵国勅使河原村(現・埼玉県上里町勅使河原)の出身で、上野国緑野郡新町宿(現・群馬県高崎市新町)で和算を教えていた吉沢恭周(1726年 - 1816年)に師事した[3]。 寛政元年(1789年)6月、江戸に遊学し、藤田貞資に入門。寛政9年(1797年)閏7月に算額を妙義神社に奉納している(非現存)[4]。 享和2年(1802年)10月16日、第三次測量の帰途で高崎宿に宿泊した伊能忠敬のもとを訪問している(『伊能忠敬測量日記一』)。栄重は以前から忠敬と面識があったとみられ、同月24日から忠敬の江戸深川の自宅の観測台「楽天楼」での恒星高度の観測に参加していることから栄重は忠敬に同行して江戸に向かったと考えられる[5]。 翌享和3年(1803年)2月25日、忠敬の第四次測量隊に栄重は参加し、江戸を出発した。測量隊は東海道、北陸および佐渡島の測量を行ったのち10月7日に江戸に帰還している。忠敬が高橋至時に帰京の挨拶をした際の記録に栄重の名がないことから、栄重は江戸まで行かずに10月4日に宿泊した高崎宿あたりで別れて板鼻宿に帰ったとみられる[6]。 それ以降も文化6年(1809年)9月12日、第七次測量で忠敬が中山道を通った際、高崎から安中にかけての測量を手伝っているほか、文化11年(1814年)5月9日に第八次測量の帰路甘楽郡宮崎村(現・富岡市宮崎)に忠敬が泊まった際も栄重は彼を訪問している[7]。 文化4年(1807年)、師の藤田貞資が死去。貞資の遺言により、貞資嫡子・嘉言から文化8年(1811年)11月に栄重は関流三題免許を与えられた[8]。 栄重は弟子の指導に熱心で、複数の「○○弁解」という書名の解説書を著して弟子に与えている。また遠方の弟子とも手紙による指導をしていたことが確認できる[9]。 天保2年(1831年)1月26日に69歳で死去。墓所は板鼻の南窓寺にあり、群馬県指定史跡となっている[10][11][12]。 著書
算額弟子
脚注
参考文献
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