工藤順子工藤 順子(くどう じゅんこ、1月20日生[1])は、日本の作詞家、シンガーソングライター。大分県大分市出身[1]。血液型AB型[1]。有限会社ヴァーゴミュージック (VIRGO MUSIC) 所属[2]。 1984年にシンガーソングライターとしてデビュー[2]。1988年より作詞家としての活動を開始[2]、多数のアーティストへ歌詞を提供している[2][3]。 経歴生い立ち大分県大分市に生まれる[1]。祖母は謡曲師範、母は邦楽教室を主催、叔母はソプラノ歌手、父はジャズを愛好するオーディオマニアと、音楽的に恵まれた環境で育ち、幼少時から音楽に親しむ[1]。一人っ子で病弱な少女であったため、子供の頃からひっそり歌を作って楽しんでいた[1]。 小学生の頃から唱歌風の楽曲の作詞・作曲を始め、校内の作曲コンクールで入賞経験もあった[1]。中学生時代は病気で長期入院したため休学していたが、その間に日本のロックやフォークソングに目覚め、ピアノとギターのコードを覚えた[1]。 20代になると、母の手ほどきにより箏曲の講師免状を取得[1]。地方在住だったこともあり、誰かに聴かせるつもりもなく一人で歌を作って満足していたが[1]、当時、父が購読していたFM情報誌の作詞コンテストを見かけ、自分のレベルを知りたいと思い立って応募した[1]。その作詞コンテストに入賞したことにより、レコード会社の目に留まりデビューにつながる[1]。 シンガーソングライターとしての活動茜色のカーニヴァル1984年3月21日、フィリップスからアルバム『茜色のカーニヴァル』でシンガーソングライターとしてデビュー[1]。アレンジは小室哲哉、日向大介。LP (28PL-62) とカセットテープ (28LT-62) で発売[4](LPとカセットの収録曲は同一)[4]。 2024年7月24日、40年の時を経てユニバーサルミュージックからLP(PROT-7274)で再発売。[5] デビューアルバムの作風は谷山浩子にも通じる幻想的なもので、歌詞には少し残酷さやエロティシズムも含み、遊佐未森に提供したのどかな作品とは雰囲気が異なる。1980年代に流行したテクノポップ調の浮遊するようなアレンジに、工藤のか細く高い少女的な声のボーカルがささやくように歌うというものであった。 『茜色のカーニヴァル』の収録曲は以下の通り[4]。 A面
B面
NHKみんなのうたデビュー後はNHK『みんなのうた』で以下の3曲を作詞・作曲・歌唱した。『みんなのうた』に合わせて童話的な作品となっている。
3曲とも長らくCD化されておらず「幻の曲」となっていたが、2016年4月27日にポニーキャニオンから発売されたベストアルバム『NHKみんなのうた 55 アニバーサリー・ベスト 〜日々〜』(PCCG.01520) に収録された[6]。工藤はこの時、初めてラジオ・テレビでの放送を前提として作詞したものの、当時はまだプロとしての自覚は湧かなかったという[1]。 平日マチネー2000年12月27日には、自身のアルバムとしては16年ぶりとなる『平日マチネー』を発売し、初のセルフプロデュースを手掛けた[2]。ヴァーゴミュージック・エンタテインメントからインディーズ (VME-0004) として発売された[7]。既に廃盤で入手困難となっている。 『平日マチネー』の収録曲は以下の通り[7]。
作詞家としての活動遊佐未森との出会い遊佐未森へは、1988年4月1日発売のデビューアルバム『瞳水晶』[8]から数多くの楽曲の作詞を手掛けており、13のシングル曲が工藤の作詞である[2]。同年10月21日発売のセカンドアルバム『空耳の丘』[9][10]からシングルカットされた「地図をください」は日清カップヌードルのCM曲としてテレビ放映され(出演はアーノルド・シュワルツェネッガー)、オリコンチャートにもランクインするヒット曲となった[1]。工藤はこの曲でようやくプロの作詞家としての自覚が持てるようになったと語っている[1]。 工藤が遊佐未森の歌詞を手掛けるようになったきっかけについては、当時、エピックソニーの音楽プロデューサーであった福岡智彦が次のように語っている[11][12][13]。遊佐をデビューさせるにあたり、工藤が所属するヴァーゴミュージックでマネージメントする話が既に進んでいた[11]。福岡がヴァーゴミュージック社長の坂野雄平に会いに行ったところ、ミディとの話もあったのだが、坂野がソニーを選んだため、エピックソニーからのデビューが決まった[11]。作詞担当者が決まっていなかったため、福岡は以前、下田逸郎から教えられた『茜色のカーニヴァル』を気に入っていたため、工藤に作詞を依頼することを思い立った[12]。 工藤はソロアルバムを発表し、NHK『みんなのうた』で放送された後も、まだ大分市の実家に住んでいた[12]。身体が丈夫でないこともあり、上京してプロとして活動する意思も無く、田舎でのんびり過ごしたいと思っていた[12]。福岡が電話で依頼した際も、工藤からははっきりした返事は無かった。福岡、坂野、遊佐の3人で大分まで会いに行き[12]、工藤に案内された由布院温泉の喫茶店で話をしたのだが[12]、福岡は当時20代であった工藤の第一印象を、「まるで女子中学生のようだった」「細くて小柄で声も小さくて、瞳の大きな聡明そうな女性だった」と語っている[12]。この「由布院ミーティング」で工藤が遊佐の曲の作詞を担当することが決まり、工藤にとっても本格的なプロの作詞家としての第一歩となった[12]。 また曲については、『瞳水晶』のアレンジを手掛けた成田忍をはじめ、松尾清憲、太田裕美、くじらのキオトなどからも集めていたが[13]、外間隆史がある日突然、曲を作ってデモテープを持ってきた[13]。その曲こそが後に工藤の詞がつき、遊佐と工藤の代表作「地図をください」となる曲である[13]。 「地図をください」がCM曲としてヒットしたことで広告業界からも反応があり、CMディレクターの川崎徹が、遊佐に歌詞を提供したいと言い出した[14]。川崎は1980年代、コピーライターの糸井重里や仲畑貴志と並んで広告ブームの立役者となった人物である[15]。大分まで行って工藤の才能を発掘してきた福岡は[12]内心困惑したものの[14]、超売れっ子である川崎の申し出を無下に断るわけにもいかず、どんな詞がいいかと川崎から聞かれ、「宮沢賢治的な世界で‥」などと答えた[14]。しかし福岡は結局、川崎の詞が気に入らずにダメ出しを繰り返した挙げ句に、「この件はもう無しにしませんか」と電話で断ったため、激怒した川崎に六本木の事務所へ呼び出され、平謝りしてその場を収めた[14]。福岡はそれでも、バブル時代の広告ブームの立役者であった川崎より、田舎でひっそり暮らしてきた少女のような工藤の書く詞の方が、遊佐の世界に合っていると信じて使い続けたという[14]。 こうして工藤は遊佐未森のデビューに関わることにより、プロの作詞家として本格的に活動を始めることになった[12]。故郷の大分市から上京してきた時には、工藤は既に30代となっていた[1]。 作品ジャンルの拡大1990年代からは、元おニャン子クラブの渡辺満里奈をはじめ、女性アイドル歌手にも多数の歌詞を提供した。2000年代以降はアニメソングや、『アルトネリコ 世界の終わりで詩い続ける少女』などのゲーム音楽の作詞も手掛け、多数の女性声優にも歌詞を提供している。 2010年代からは、NHK教育テレビの幼児向け番組『大!天才てれびくん』や[2]、『おかあさんといっしょ』の楽曲「おさんぽクンクン」「ひみつのパレード」(歌:横山だいすけ・三谷たくみ)の作詞なども手掛け[16]、幅広いジャンルで作詞家として活躍している[2]。 家庭環境の中で育まれた邦楽や伝統芸能の方面にも活動を広げ、2009年には、叔母と母による邦楽創作オペラ「恋鶴」の作詞・作曲を担当し、横浜市青葉区民センターフィリアホールで上演された[1]。 また2014年には、故郷の大分市(豊後国府内)に生まれたキリシタン大名・大友義鎮を題材とした、箏・尺八・歌のための「宗麟夢見し」の作詞・作曲および初めての編曲を担当[1]。大分市が毎年2月にホルトホール大分で開催している市内の伝統芸能団体の発表会「芸能まわり舞台」[17]第20回にて上演された[1]。 今後もさらにジャンルを拡げていきたいと抱負を語っており、ヘヴィメタル、ゴスロリ系、歌謡曲などにも作詞してみたいという[1]。 主な作品提供アーティスト
脚注
関連項目外部リンク
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