延徳春延 徳春(ヨン・ドクチュン、연덕춘、1916年 - 2004年[1])は、第二次世界大戦前の日本と戦後の大韓民国で活動した朝鮮半島出身のゴルフ選手。朝鮮初のプロゴルフ選手である。本貫は谷山延氏[2]。 戦時期の日本では創氏改名により延原徳春を名乗っており、第二次世界大戦による途絶前の最後の日本オープン(1941年)の優勝者として知られる。戦後韓国でのプロゴルフの組織づくりにも関わり、「韓国プロゴルフの父」とも呼ばれる[3]。韓国プロゴルフ協会が授与する年間最少スコア賞が「徳春賞」として記念されている。 生涯生い立ちと戦前の活動1916年、京畿道高陽郡纛島面(現在のソウル特別市城東区トゥクソム付近)生まれ[3]。生家は農家であった[4][3]。1930年[5]、生家の近所の君子里に、京城ゴルフ倶楽部の君子里コース[注釈 1]ができ、徳春とゴルフの接点ができる[4]。徳春の親族[注釈 2]は、君子里でマスターキャディを務めており[4]、1932年、16歳になった徳春はその勧めでキャディのアシスタントを始める[4]。京城ゴルフ倶楽部では日本人のプロ[注釈 3]がゴルフ指導に当たっており、会員以外にキャディにもゴルフを教えていた[4]。こうした環境の中で徳春はゴルフが上達した[4]。やがて京城ゴルフ倶楽部では徳春を本格的に選手として育成しようとする機運が高まった[4][7]。1934年、京城ゴルフ倶楽部は徳春を日本へのゴルフ留学に送り出した[3][注釈 4]。徳春は藤沢カントリー倶楽部で中村寅吉にゴルフの指導を受ける[3]。1935年、関東プロゴルフ協会のプロゴルファーテストに合格[5]。朝鮮初のプロゴルファーとなった[4]。 徳春は京城ゴルフ倶楽部にクラブプロとして所属した[3]。翌1936年には兄夫婦が事故死したためその子2人を引き取った[3]。またこの年に結婚をしており、実子5人にも恵まれた[3]。 1941年、程ヶ谷カントリー倶楽部で開かれた日本オープンゴルフ選手権競技では、浅見緑蔵、陳清水、中村寅吉、孫士鈞(のちの小野光一)らの強豪を破り優勝した[7]。優勝カップは玄界灘を渡り、京城駅前には歓迎の人々が集まった[3]。徳春を支援し世話し続けた富野繁一(朝鮮ゴルフ連盟常務理事)も感激の言葉を残し「ぜひ2連覇のレコードを」とも記した[7]。しかしこの大会が、戦前最後の日本オープンとなった。1942年には日本プロ選手権で2位の成績をおさめている[5]。 1943年にゴルフ場は閉鎖され、徳春は職を失った[3]。 戦後韓国での活動第二次世界大戦の中でかつての君子里コースは荒廃し、戦後の韓国でゴルフが顧みられる余裕はなかった。君子里コースはアメリカ軍の支援を受けて1950年5月に復旧されるものの、間もなく朝鮮戦争が勃発した[3]。徳春も朝鮮戦争で長子や養女を失うなど辛酸をなめた[3]。1954年に君子里コースは復旧し、ソウルカントリークラブとして再開された[3]。 1956年、第4回カナダカップ(ワールドカップの前身)に招聘され、パク・ミョンチュルとともに出場[3]。 1958年6月、ソウルカントリークラブで開催された第1回韓国プロゴルフ選手権[注釈 5]に出場し、初代優勝者となった[3]。 以後、1963年、プロ選手の親睦団体として「プロゴルフ会」(프로골프회)を設立した[3]。1968年には政財界の支援を取り付け[8]、韓国プロゴルフ協会(KPGA)の設立に大きな役割を果たした[3]。1972年には、KPGAはプロゴルファーが直接運営する組織であるべきという議論からKPGA第2代会長に就任[8][3]。ゴルフ界の業務(プロ資格認定、選手の海外派遣派遣など[4])に携わるとともに、選手としても活動を続け、また多くの後進を指導した[8]。 備考
脚注注釈
出典
参考文献
外部リンク
|