多古線 |
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| 概要 |
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現況 |
廃止 |
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起終点 |
起点:成田駅 終点:八日市場駅 |
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駅数 |
14駅 |
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運営 |
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開業 |
1911年7月5日 (1911-07-05) |
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廃止 |
1946年10月9日 (1946-10-9) |
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所有者 |
千葉県→成田鉄道 |
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使用車両 |
車両の節を参照 |
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路線諸元 |
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路線総延長 |
30.2 km (18.8 mi) |
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軌間 |
1,067 mm (3 ft 6 in)(1928年以降) |
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過去の軌間 |
600 mm (1 ft 11+5⁄8 in)(1928年まで) |
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テンプレートを表示 |
停車場・施設・接続路線
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*: 当路線廃止時点では未開業
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多古線(たこせん)は、バス会社千葉交通の前身である成田鉄道(2代目)が、かつて運営していた鉄道路線(廃線)である。
概要
千葉県営鉄道としてこの鉄道空白地域の便を図るため、1911年(明治44年)から1926年(大正15年)にかけて成田 - 多古間が開業した。開業時は大日本帝国陸軍鉄道連隊が演習で敷設した設備と車両を借用していたが[1]、千葉県に後に払い下げられた。1914年(大正3年)には八街 - 三里塚間の支線八街線も鉄道連隊が敷設して開業、1917年(大正6年)に千葉県に払下げられた。
祖父が各駅の駅長を務めていた小川国彦が「成田駅で発車に乗り遅れた人が、直後であれば、駆け足で追いつくことができた」と回想し[2]、平林たい子が『砂漠の花』の中で「汽車がカーブするときに、飛び降りて用を足して、また走ってのるんだからのんきなもんさ[3]」と書いているように[4]、のどかな鉄道であった。
開業当初は日本の営業用鉄道では群馬馬車鉄道に次いで狭い600mm軌間で、後に国鉄との直通の便を図り1067mmの狭軌へ改軌した。同じころ延伸開業した多古仮(後の多古〈2代目〉) - 八日市場間は、最初から1067mm軌間である。八街線は600mm軌間のまま、1940年(昭和15年)の廃線まで改軌されなかった。
営業成績が悪かったため、1927年(昭和2年)4月に成田市で路面電車を運営する、京成電気軌道傘下の成田電気軌道(1か月後に成田鉄道と改称)へ売却額140万円で譲渡された。建設費は167万円だったが県会は満場一致で可決した[5]。なお、この売却金の一部は漁業指導船「ふさ丸」の建造に充てられた[6]。
現在成田国際空港の用地になっている三里塚付近には、宮内庁下総御料牧場がかつて存在(後に栃木県へ移転)しており、戦前は桜の名所としても知られていたため、国鉄総武本線・成田線から臨時の直通列車が乗り入れたこともあった。
しかし戦時体制に入ると石炭や資材不足により1日2往復まで削減された。さらに戦局の進展により、日本軍が占領したセレベス島(現在のインドネシア領スラウェシ島)に京成グループが鉄道(セレベス開発鉄道)を敷設することになったため、路面電車ともども資材を供出するため休止され[1]、かわりに省営自動車の運行が始まった。千代田 - 染井間は線路跡の路盤を利用して成田 - 三里塚間10往復、成田 - 多古間2往復、多古 - 八日市場間12往復が運行された[7]。しかしバスは、ガソリンが戦時体制で使用できず木炭を燃料にしていた木炭自動車のため、従来の鉄道が1時間20 - 40分で全線を結んでいたところを2時間以上も要するようになった。現在ではJRバス(ジェイアールバス関東)多古線が同区間を1時間 - 1時間20分で結んでいる。
なお、セレベス島(スラウェシ島)での鉄道建設のため南方に送られた鉄道資材については、運搬していた船が撃沈され海中に没したとの説、実際に現地で敷設されたとの説、海上輸送されず大砲や弾丸の原料に転用されたとの説があり、詳細は分かっていない[8]。
路線データ
休止時点
運行概要
1934年10月1日改正当時
- 旅客列車運行本数:日9往復(その他、成田 - 三里塚間1往復)
- 所要時間:全線1時間13分 - 17分
沿革
駅一覧
- 廃線時
- 成田駅(なりた) - 西成田駅(にしなりた) - 東成田駅(ひがしなりた) - 法華塚駅(ほっけづか) - 三里塚駅(さんりづか) - 千代田駅(ちよだ) - 五辻駅(いつじ) - 飯笹駅(いいざさ) - 染井駅(そめい) - 多古駅(たこ) - 下総吉田駅(しもうさよしだ) - 豊栄駅(とよさか) - 西八日市場駅(にしようかいちば) - 八日市場駅(ようかいちば)
- 改軌時の廃線区間
- 成田駅 - 成田裏駅(なりたうら) - 東成田駅
- 千代田駅 - 五辻駅 - 飯笹駅 - 染井駅 - 多古駅
接続路線
輸送・収支実績
年度
|
輸送人員(人)
|
貨物量(トン)
|
営業収入(円)
|
営業費(円)
|
営業益金(円)
|
その他益金(円)
|
その他損金(円)
|
支払利子(円)
|
政府補助金(円)
|
運営会社
|
1924 |
238,243 |
26,729 |
99,600 |
139,334 |
▲ 39,734 |
|
|
12,066 |
|
千葉県
|
1925 |
250,370 |
25,758 |
79,436 |
122,642 |
▲ 43,206 |
|
|
8,850 |
|
千葉県
|
1926 |
293,835 |
18,336 |
80,084 |
172,391 |
▲ 92,307 |
|
雑損1,202 |
16,383 |
|
千葉県
|
1927 |
273,898 |
11,275 |
53,128 |
64,154 |
▲ 11,026 |
軌道益金77,501 |
|
7,250 |
|
成田
|
1928 |
480,833 |
35,776 |
94,831 |
106,522 |
▲ 11,691 |
軌道80,477 |
|
6,534 |
|
成田
|
1929 |
604,120 |
32,439 |
140,677 |
120,396 |
20,281 |
軌道自動車業62,153 |
|
61,898 |
|
成田
|
1930 |
817,449 |
56,491 |
193,924 |
141,173 |
52,751 |
軌道自動車業149,276 |
|
170,051 |
|
成田
|
1931 |
577,629 |
36,858 |
136,158 |
91,254 |
44,904 |
自動車軌道業109,354 |
|
129,320 |
|
成田
|
1932 |
562,740 |
32,820 |
122,348 |
100,399 |
21,949 |
自動車及軌道業41,161 |
雑損35 |
115,007 |
39,894 |
成田
|
1933 |
533,714 |
42,442 |
123,610 |
86,161 |
37,449 |
自動車軌道業63,009 |
償却30,000 |
103,993 |
39,979 |
成田
|
1934 |
569,833 |
32,831 |
116,362 |
98,625 |
17,737 |
軌道自動車業其ノ他53,534 |
償却金25,000 |
87,320 |
40,268 |
成田
|
1935 |
493,468 |
33,313 |
103,995 |
102,543 |
1,452 |
軌道業其ノ他44,501 |
|
86,522 |
40,652 |
成田
|
1936 |
470,274 |
36,661 |
130,669 |
105,076 |
25,593 |
軌道自動車149,464 株式評価益金364,599 |
雑損償却金378,062 |
170,692 |
27,621 |
成田
|
1937 |
501,835 |
36,866 |
153,951 |
108,627 |
45,324 |
自動車軌道業271,599 |
雑損償却金56,311 |
251,599 |
27,844 |
成田
|
1939 |
634,892 |
51,602 |
|
|
|
|
|
|
|
成田
|
1941 |
541,397 |
52,410 |
|
|
|
|
|
|
|
成田
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- 鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計各年度版
- 1923年以前は久留里線、野田線合算のため省略
- 八街線と合算
車両
改軌後(1067mm)の車両
脚注
注釈
出典
参考文献
- 日本鉄道旅行地図帳 3号 関東1(今尾恵介監修 新潮社 2008年)ISBN 978-4-10-790021-0
- 青木栄一・花上嘉成「東武鉄道の電車 その2」『鉄道ピクトリアル』No116 1961年3月号
- 岡本憲之・山口雅人『実録鉄道連隊』イカロス出版、2009年、56-61頁
- 白土貞夫「成田鉄道 失われた鉄道・軌道を訪ねて」『鉄道ピクトリアル』No156 1964年4月号
- 吉田英正・早川丈令・名取紀之「或る試作DLの生涯」『トワイライトゾーンマニュアル 3』ネコパブリッシング、1994年
外部リンク
帝国陸軍地図(スタンフォード大学ライブラリ)
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