戸川一郎
戸川 一郎(とがわ いちろう、1935年4月2日 - 2018年10月15日[要出典])は、山口県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 来歴・人物柳井高校ではエースとして活躍。1952年秋季中国大会決勝で米子西高を破り優勝。翌1953年春の選抜に出場、2回戦(初戦)で育英高を降す。準々決勝に進み伏見高の太田武と投げ合うが延長11回サヨナラ負け[1]。同年夏の甲子園県予選は準決勝で下関東高に敗退し、西中国大会には進めなかった。 1954年に南海ホークスへ入団。1年目は26試合に登板し、8勝3敗とまずまずの好成績を記録。翌1955年は44試合に登板し、12勝5敗の成績で[2]初の2桁勝利を記録。同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでは3試合に登板。第3戦では5回裏から宅和本司の後を受けて登板し、9回まで無失点に抑えシリーズ初勝利。第4戦も中村大成をリリーフし5回裏から登板、その後を1失点に抑え2試合連続で勝利投手となった。第7戦は先発投手が払底し、急遽戸川が先発するが5回表に1点を失って降板。三番手で登板した小畑正治が9回に打ち込まれて3点を失い、打線も先発の別所毅彦に4安打に抑え込まれて完封負け。戸川は負け投手となり、チームもシリーズ優勝を逃した。戸川は2勝1敗、防御率1.29とシリーズを通じての好投が評価され、シリーズ敢闘賞を受賞した。1956年は31試合に登板し、10勝4敗と2年連続で2桁勝利を記録。しかし、膝に水が溜まる故障があり[3]、1957年は不振でわずか4試合しか登板できず未勝利に終わった。1958年は3勝を挙げるも、シーズンオフに自由契約となる[4]。 1959年は東映フライヤーズでプレーするが、同年も4試合の登板に留まり、この年限りで引退。 引退後はプロゴルファーに転向し、1981年には京滋オープン[5]、1999年には関西プログランドシニアで優勝[6]。 選手としての特徴体力がないので完投はあまりできなかったが、度胸があったことから救援投手として力を出した[3]。 詳細情報年度別投手成績
表彰背番号
脚注
参考文献
関連項目 |