打狗英国領事館文化園区
打狗英国領事館文化園区(だくえいこくりょうじかんぶんかえんく、繁体字中国語: 打狗英國領事館文化園區)は台湾高雄市鼓山区高雄港にある旧イギリス領事館と領事官邸、両館を繋ぐ山道を包括する建造物群。 領事館の2つの建物は台湾で現存最古の西洋近代建築物であり、日本統治時代と戦後の国民政府時代に用途を変えながらも、1987年に中華民国内政部により二級古蹟(直轄市定古跡)に指定を経て(その後2019年に国定古蹟に昇格)、戦災や災害によって損壊した建物の修復が進められた。2013年より一帯を「打狗英国領事館文化園区」として開放、高雄市屈指の観光地となっている。 打狗英国領事館
1858年、清朝政府とイギリス政府の間で天津条約締結に伴い打狗港が開港し、1864年に同港に税関が設置されることになった。淡水にあった領事館から副領事のロバート・スウィンホーが派遣されたが、当初は港内の廃船「三葉号(Ternate)」を借りて領事業務を行っていた。翌1965年2月に打狗副領事館は領事館に昇格、旗後(現在の旗津区の一部)にあった華人の住居を領事館として借り上げた。同年8月にマックフェイル商会(McPhail & Co、天利洋行)が哨船町(現在の鼓山区哨船頭里)に建てた赤レンガ造りの西洋建築の社屋が完成し、1867年5月からイギリスが借り上げ1910年まで領事館として使われた。その後日本政府(台湾総督府)が水産試験場として、戦後も台湾政府が水産試験所として使用した。2005年に「高雄州水産試験場(英国領事館)」という名義で市政府に古蹟登録を受けた。その後予算が投入され修復をされている。 麓の領事館は対外業務を行う公館であり、埠頭、税関、商船への接近性からこの場所が選ばれた。当時のイギリス政府にとって打狗地区における重要な業務拠点であり、領事裁判権を有していたことから拿捕、牢獄の機能も備えていた[2]:頁18。打狗港地区における規約違反者には洋の東西を問わず罰則として牢獄に幽閉していた。日本の水産試験所として使われた際に大幅な改築がなされたため、清朝時代の面影をみることはほとんどできなくなっている。 1868年に台南の安平港で起きた樟脳貿易を巡る台湾道役人とイギリス人との争いが安平砲擊事件に発展し、打狗領事館が処理に当たっている[2]:頁27、28。 哨船頭では道路を除いて旧領事館と海の間を隔てるものは何もなかったが、戦後は海巡署の安検所事務所が設けられていた。しかし2018年夏に撤去され、往時の姿を取り戻している[3]。 打狗英国領事官邸
領事官邸は西子湾に面する海抜高度30メートルの高台(哨船頭山)にあり、北側は寿山、三方を断崖に囲まれている。麓の領事館とは石段で繋がっている。1877年1月に領事館の山頂の土地を取得、1879年8月より領事官邸が完成した。総面積は471平方メートル[4]:頁42。日本統治時代から1979年までは海洋観測所として使われ、1987年に内政部により「英国領事館」として直轄市定古蹟登録を受ける。歴代の内外政権や使用者が転々としたことで、高台にある官邸と比べて麓の領事館の建築はあまり重要視されずに官邸のほうが領事館としばしば誤認されてきたが[5]、実際には領事館ではなく官邸であり、2009年に訂正されるまでは誤った名称で登録されていたことになる[6]。 領事官邸は植民地仕様の[7]、薔薇と石彫が特徴のバロック建築で、イギリス人が設計した。採寸も英国式の度量衡でありヤードやフィートが使われている。四方を回廊式のバルコニーが囲んでいて柱の上部は半円状のアーチ構造となっている。各部屋には暖炉を備え、下層は地面の高さが不均等なため一部が地下室となっており、倉庫や貯蔵室として主に使われた。赤レンガは中国のアモイから運ばれている。竹状の排水管は清朝末期の洋館の特色。赤レンガの配置や装飾は北方ルネッサンス様式となっている。 山頂の領事官邸は快適性、安全性、プライベートの確保に適している物件として該当したため選定され、建物からは打狗港が一望できる視界の広さだけでなく、石段でしかアクセスできないことによる静粛性があり、領事館職員の住居、または外交使節の迎賓場所として使われた。 古蹟登録を受ける前年の1986年より官邸の修復構想が始動し、打狗港開拓と近代史の文献や鳳山県旧城の模型などを保存、展示する高雄史蹟文物陳列館として再開業。その後修復作業に入り、2004年に再オープンすると来訪者数は40万人超を記録した[8]。2013年10月には台湾の実業家である黄騰輝がオーナーのティーサロン「古典玫瑰園(ローズハウス)」が官邸内に開業した[9]。
登山歩道
官邸(海洋観測所)と領事館(水産試験所)を結ぶ全長約200メートルの階段。領事官邸落成と同時に供用された。花崗岩と珊瑚石、赤レンガで造られている。山頂の官邸に至る坂道は他にもあるが、この歩道のみが園内のものとして扱われている。
沿革清朝時代
日本統治時代
第二次世界大戦後
周辺アクセス
ギャラリー
脚注註釈
出典
関連項目外部リンク
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