摂津茂和
摂津 茂和(せっつ もわ、1899年〈明治32年〉7月21日 - 1988年〈昭和63年〉8月26日[2][3])は、日本の小説家、ゴルフ評論家[2]、ゴルフ史家[4]。 雑誌「新青年」などでユーモア小説家として活躍した後[2]、ゴルフ史家として多くのゴルフ関連の書籍を多く著し[5]、ゴルフ関連の施設やゴルフ場の建設にも貢献した[2][6]。本名は近藤 高男(こんどう たかお)で[7][8]、「摂津茂和」はフランス語で「これが私」を意味する「C'est moi(セ・モア)」をもじった筆名である[9]。息子は三井物産ニューヨーク本店元社長の近藤久男[8][10]。 経歴東京府出身[2]。中学時代には薄田泣菫や永井荷風の作品を熟読しており、特に泣菫の風刺的な作品に強い影響を受けた[11]。慶應義塾大学法学部に進学したが、当初は文科を志望したにもかかわらず、父から猛反対されたため、政治科へ進んだ[11]。25歳のとき、父に連れられてヨーロッパを旅行し、パリやロンドンを回った[11]。 慶應を1924年(大正13年)に卒業後、貿易などの実業の傍らで[1]、友人の発行していたゴルフ雑誌に随筆を書いていた[11]。この文業は摂津曰く「素人のすさび」程度のものだったが[11]、これがゴルフ仲間である雑誌「新青年」編集長(当時)の水谷準の目に留まり、水谷の勧めで[11][12]、1939年(昭和14年)3月号に「新青年」に『のぶ子刀自の太っ腹[13]』を掲載し、40歳にして作家としてデビューした[11]。その後も、ユーモア小説作家として活躍した[2]。水谷は、当時の日本文学にはユーモアが欠けていると考えて、1933年(昭和8年)にユーモア探偵小説を提唱したことを始め、P・G・ウッドハウスやジョンストン・マッカレーを取り上げるなどして、ユーモア小説にかなりの関心を抱いていたが、日本に書ける人物がおらず、摂津に白羽の矢を立てたという[14]。また摂津自身は、当初からユーモア小説を志したわけではないが、どんな小説にも多少のユーモアと風刺を必要と考えており、そうした考えが自然に自分をユーモア小説へ進ませたと見ている[11]。 1941年(昭和16年)に陸軍報道部嘱託として、山岡荘八、久生十蘭、棟田博らと共に、中支前線に従軍[11]、1943年(昭和18年)には海軍報道員として、10か月間マニラに滞在した[11]。翌1944年(昭和19年)、自身にとって初の新聞小説『道は近し』を毎日新聞に連載した[11]。1954年(昭和29年)から光文社の雑誌「面白倶楽部」に連載した小説『台風息子』は、小石栄一の監督、江原真二郎らの主演により、1958年(昭和33年)に映画化もされた[15]。 小説家として14年間の作家生活の後[11]、ゴルフ史家として、ゴルフの著作や訳書を多く著し[5]、ゴルフ用語の由来[16][17]、ゴルフにまつわる名言や格言[18][19]、ゴルファーとしての心構えなどを説いた[20][21]。ゴルフ歴は40歳頃からであり、関東各地を始め、遠くは九州まで各地のゴルフ場を回っていた[22]。アメリカのゴルフ収集家協会(Golf Collector’s Society)に、日本人として初めて会員となり[17]、日本では日本ゴルフ協会の史料委員長を務めた[2][5]。1979年(昭和54年)には同協会史料委員長として、兵庫県のゴルフ博物館であるJGAゴルフミュージアムの開館にも尽力し[4][23]、ミュージアム運営副委員長も務めた[2]。千葉県のゴルフ場であるカレドニアン・ゴルフクラブの建設にあたっては、カレドニアンの会長である早川治良と親交があったことから、建設に対して強い影響を与えた[24]。 1988年(昭和63年)に、食欲の減退から入院[25]。同1988年8月、胃癌のため、東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で、89歳で死去した[7][8]。 評価小説家としての活動について、フリーの編集者である滝口浩は、戦争という緊張下において現れた作家として名を挙げており、雑誌「新青年」1939年(昭和14年)9月に掲載した『台風の彼方に』を「『ユーモア作家』として編集部に分類されていた摂津茂和の筆が、鮮やかにリアル・タイムの緊迫感を帯びてくる作品[* 1]」「間国家(インターナショナル)のドラマを摂津茂和は見事に描き出してみせた[* 2]」とし、摂津を「『新青年』が生んだ最大の国際小説家」と評価している[9]。摂津自身は、大学時代のヨーロッパ旅行の経験が、自身の小説執筆の題材を提供することになったと語っていた[11]。 直木賞創設に携わった菊池寛は、1942年(昭和17年)の直木賞審査後に、摂津が1941年(昭和16年)に刊行した第2作品集『三代目』を読み、「この作家は、大衆文学の芥川龍之介と云ってももいほど、物識りで才筆である。この人が、今迄直木賞の候補に上がらなかった事は[* 3]、我々委員会の手落であるとさえ思った[* 4]」と絶賛した[26]。 ゴルフ史家としては第一人者とされ[5][27]、ゴルフ書籍の収集家としても世界的に著名である[5][27]。千葉のカレドニアン・ゴルフクラブ建設に尽力したことについて、会長の早川治良は、摂津がいなければカレドニアンは無かったとして「カレドニアンの恩人」と語っている[6]。実業家の野間省一は、ゴルフについてわからないことは何でも教わったことから「ゴルフ博士」と呼んでいた[28]。没後、告別式の行われた同1988年8月29日は月曜日であり[7][8]、ゴルフ評論家である金田武明は「ゴルファーがもっとも気にしない月曜日が葬儀だったのもゴルフ人らしい」と語った[25]。 受賞歴著作小説
他、多数。 ゴルフ関連
他、多数。 脚注注釈
出典
参考文献
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