日下部久太郎日下部 久太郎[1](くさかべ きゅうたろう、1871年7月20日(明治4年6月3日)[2] - 1953年(昭和28年))は、日本の資産家[3]・実業家。日下部汽船、岐阜信託各社長[4][5]。十六銀行取締役[4][6]。日下部同族代表[4]。 経歴岐阜県羽島郡坂丸村(現在の羽島市)の農家に生まれる[1]。日下部吉右衛門の二男[5][7]。北海道に渡り、諸種の業に従う[1]。函館で米穀、肥料、海産物商を営み、傍ら海運業に嘱望する[8]。しかし米相場の暴落に遭い失敗し、遂に閉店する[8]。 函館に北海産業合資会社が設立され、同社海運部主任となり、大にその手腕を振るう[8]。1907年(明治40年)、同社を退く[8]。1908年(明治41年)、日下部合名会社を組織して、自ら代表社員となり、船舶の代理売買及び賃貸を兼ねて傍ら運送業を営む[1]。1911年(明治44年)、神戸に支店を出し、大に業務を拡張する[8]。 第一次世界大戦時に、海運、船舶の売買などで財をなす。1917年(大正6年)、日下部株式会社を創立し、その社長となる[8]。 海運業や金融業以外にも、倉庫業、小規模ながら油田や炭鉱も経営していた。 太平洋戦争で、海運業に使用していた船舶は一隻を除いて、すべて連合国の潜水艦などによって沈没させられた。また、太平洋戦争では石油や石炭が重要資源であり、政府管理下に置かれて、戦争終了時点では完全に採掘が終了していた。倉庫も空襲で完全に破壊された。 人物宗教は真宗[4][5][6]。岐阜県在籍[5][6]。住所は北海道函館市末広町[1][2]、岐阜市米屋町[6][7][9]。 その他日下部株式会社は日下部汽船に改称。現在は日下部建設株式会社となっている。 神戸市にある舞子ホテルは、日下部汽船迎賓館兼日下部久太郎の別邸である。 日下部久太郎が建てた、岐阜市の住居兼事務所や倉庫は、1998年(平成10年)の第1回目の「岐阜市都市景観重要建築物」に、3つの建築物が指定された。第1回目には岐阜市の12の建築物が指定された内、複数の建築物が指定されたのは、日下部久太郎ゆかりのものだけである。 愛知県名古屋市にある「八事興正寺」には、岐阜市の久太郎が建てた「岐阜市都市景観重要建築物」の一部が移築された。「竹翠亭」という名称になっている[10]。 岐阜市には、第1回目の「岐阜市都市景観重要建築物」の3つの建築物のうち、1つが現存している。所有者は日下部家やそのゆかりの法人ではない。 栄典家族・親族
関連項目脚注
参考文献
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