日本の交響作品展『日本の交響作品展』 (にほんのこうきょうさくひんてん) は、芥川也寸志(1925年 - 1989年)とアマチュアオーケストラの新交響楽団 が、1976年から1986年まで開催したコンサートのシリーズ。毎回日本人作曲家一人あるいは数人を取り上げ、各人の主に初期の交響作品 (管弦楽作品) を演奏した。 概要作曲家の芥川也寸志を指揮者 (後に音楽監督) として1956年に発足したアマチュアオーケストラ新交響楽団は、創立20周年を迎えた1976年、2夜にわたる「日本の交響作品展」を開催した。これはプロのオーケストラがあまりとりあげない、戦前の日本の交響作品を紹介する企画であった[1]。この企画により、芥川と新交響楽団は第8回鳥井音楽賞(現サントリー音楽賞)を受賞した[2][3]。1977年8月には鳥井音楽財団主催の受賞記念コンサートが後述のとおり東京と大阪開催され、前年のプログラムから清瀬保二、箕作秋吉、尾高尚忠、早坂文雄、伊福部昭の作品が演奏された[4]。以降、芥川と新交響楽団は、1986年まで継続してこの企画を続けた[5] 。 背景明治以降に日本人が作曲した交響作品は、山田耕筰の交響曲ヘ長調『勝鬨と平和』 (1912年) が嚆矢とされる。NHK交響楽団 (N響) が1981年に編集した『現代日本の管弦楽作品1912〜1981』には、334人の作曲家の合計1,589曲が掲載されている。この中で戦前の作品は、1944年までに73人が作曲した513曲を数えることができる。このうち1912年から1934年までの約20年間に作曲されたのは107曲であるが、1935年から1944年までの10年間に、実に4倍の406曲が作曲された[6]。これは日本人作曲家の力量が充実してきたと同時に、1940年(昭和15年)の皇紀二千六百年に向けて作品公募が行われ、関連した多くの演奏会が開催されたこと、またN響の前身である新交響楽団 (1942年以降は財団法人日本交響楽団) の定期演奏会で、毎回自国作曲家の作品が演奏されたことが大きな要因であった[7]。 戦後の日本ではプロのオーケストラが飛躍的に発展し、毎日のように各地で様々な演奏会が開催されている。しかしプログラムに取り上げられるのは大概外国の作品で、日本人の、しかも戦前の作品をプロオーケストラが定期公演で繰り返し演奏したのは、近衛秀麿『越天楽』などわずかなものにすぎない[8]。 1925年生まれの芥川也寸志は中学時代から音楽家を志し、東京音楽学校に学んだ1935年から1944年の時期は、日本人作曲の管弦楽作品が数多く生まれた時期に重なる。これについて音楽評論家の小宮多美江は、次のように指摘している。「N響は1942年以降、毎定期公演に日本作品を組み、小倉朗作品も伊福部作品も繰り返し放送された。それら日本の管弦楽作品を彼 (芥川) がききのがすはずがない。日本の作品が出版される機会も意外に多く、学生時代の彼が古本屋で買った楽譜が日本の交響作品展の最初の土台資料になったこともいうまでもない」[9]。1976年の「日本の交響作品展 昭和8年〜昭和18年」で芥川が取り上げた10人の10曲は、彼が8歳から18歳の時期の作品であり、若き感性を大いに刺激した作品群ということができる。 評価1978年に開催された鳥井賞受賞記念コンサートのプログラム冊子では、音楽評論家の木村重雄が芥川と新交響楽団のこの企画について、「創成期における日本のオーケストラ音楽の実態とふれあえる関心が会場に足を歩ませ」「芥川の的確な指導により「新響」がこれらの作品を全人的ともいえる技術と精神力のすべてを注ぎこみ集中させた好演」と述べ、「アマチュア・オーケストラのアプローチしうる理想の限界点ではなかったろうか。そして、疑いもなく彼らはそれを克服し、次の目標に進もうとしている」、とエールを送っている[10]。 1987年以降順次リリースされた「日本の交響作品展」関連CDのライナーノーツでも、音楽評論家の富樫康[11][12]、秋山邦晴[13]、小宮多美江[14]、小村公次[15]らが、「今日的視点から日本の近代音楽史に光をあてる画期的なコンサート」であったことを異口同音に述べている。また芥川の師である作曲家伊福部昭も、「作品を書くばかりでなく、日本はもっと日本の作品を重視す可きであると云うのが彼の主張であり、このことが新交響楽団の結成や、その後の長い育成に繋がったのであった。又、事実、芥川君の指揮する日本の作品の演奏には、独特な愛情と誠実さが見られる」[16]と記している。 小宮はさらに、芥川没後の1990年に刊行された『芥川也寸志:その芸術と行動』の中で、「「日本の交響作品展」のこと」という章を執筆し、6ページにわたりこの企画の概要と意義をまとめている。その中で小宮は「(芥川は)民族的作曲家としては当然とりあげられるべき松平頼則個展は、サントリーの作曲家個展にゆだねた。それは同事業のその後の道をひらいたといえるが、松平頼則作品でぶつかる技術的なあたらしい困難で、アマチュアの気迫を殺ぐまいとの配慮もあったと思う。(中略)ところが、こうしたこころ遣いを知らぬげに、新響は彼(芥川)亡きあと、もっとも若い同時代作家細川俊夫の作品を委嘱初演でやってのけた」、と新響の企画力を讃えている[17]。 内容一覧シリーズ各回の開催年、「演奏会名」および取り上げた作曲家と作品は以下の通り。なお指揮はいずれも芥川也寸志、会場は1978年第2夜 (日比谷公会堂) を除き、東京文化会館大ホールであった。
受賞記念演奏会1977年8月に東京と大阪で開催された鳥井音楽財団主催の新交響楽団演奏会と[4]、1987年2月にサントリーホール開場記念として開催された新交響楽団演奏会[18]の詳細は次の通り。指揮はいずれも芥川也寸志。
後継の演奏会1989年に芥川が没した後も、新交響楽団は作曲家石井眞木、音楽評論家秋山邦晴、片山杜秀、また日本近代音楽館[19]などの協力を得て、折に触れ日本人の交響作品を演奏会に取り上げた。その中でまとまった形の演奏会は次のとおりである[20]。なお、2002年以降も新交響楽団は日本人作品をプログラムに取り上げているが、「日本の交響作品を積極的に、継続的に演奏する」方向性は、2002年設立のオーケストラ・ニッポニカに継承されている[21]。
関連CD一覧1986年の『日本の交響作品展10 芥川也寸志』は、ライヴ録音CDが翌1987年に (株) フォンテックからリリースされた。これは同年に音楽之友社主宰のレコード・アカデミー賞〈特別部門 日本人作品〉を受賞している[22]。 その後フォンテックから「日本の交響作品展」および後継の演奏会ライヴ録音が順次リリースされた。各CDタイトル、品番 (発売年) は次の通り。
これらのCDの多くはフォンテックから2011年に下記の通り再発売されている[23]。
参考文献
脚注
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