小倉朗
小倉 朗(おぐら ろう、1916年1月19日 - 1990年8月26日)は、日本の作曲家[1]。本名:小倉晋(すすむ) 、旧姓は小林[1]。 人物・来歴生い立ち鉄道技師小林源松[2]の五男[3]として福岡県門司市(現北九州市門司区)の鉄道官舎に生まれ、生後3ヶ月から東京市京橋区木挽町(現東京都中央区)の銅鉄商小倉家の養子として東京に育つ[1]。6歳からピアノの手ほどきを受け、蓄音機やオルガン、ギター、マンドリンがある家で育つ[4]。母から音楽家になるよう勧められ、声楽家下八川圭祐の紹介で深井史郎に師事する[5]。易に凝っていた母から「朗」の字を贈られる[6]。 青年期1933年、早稲田第一高等学院仏文科にはいるが、下八川圭祐の主宰するコーラスで歌ったり、新交響楽団の打楽器の見習いなどをやり、学校は1学期で中退[2][7]。1934年、東洋音楽学校に1学期在籍し中退するが、尾崎宗吉を知る[2]。1935年、アテネ・フランセに通い、ピアノを高木東六に習い、深井史郎から菅原明朗を紹介される[2]。1936年、明治大学文芸科に2学期在籍し中退するが、音楽部を通じて音楽仲間が広がる[2]。同年服部正が創設したコンセール・ポピュレール(後の青年日本交響楽団)に、打楽器奏者として参加している[8]。歌曲「遠き笛の叙情」を作曲する[2]。 1937年、日本現代作曲家連盟に加入し[9]、連盟の発表会で初演された「ピアノ・ソナチネ」「ヴァイオリン・ソナタ」などが高く評価される[1]。1938年、草野心平、深井史郎ら詩人と作曲家のポム・クラブに第3回発表会から参加し、歌曲を発表する[2]。1939年、安部幸明、深井史郎、山田和男らと楽団プロメテを結成する[10]。池内友次郎に師事し、フランス近代の和声・対位法、フーガを学ぶ[2]。1940年、ローゼンシュトックに師事し、ベートーヴェンの交響曲の指揮法を学ぶうちに、次第にドイツ古典音楽に傾倒した[1]。交響曲などを書くが、その内容があまりにドイツ古典主義的だったため、“オグラームス”と綽名されたほどであった[1]。 1941年、ドイツ古典の技法を取り入れた「交響組曲イ短調」を作曲し、グルリット指揮中央交響楽団で初演される[11]。1943年、臼井以能子と結婚するが、以能子は結核を発病し1945年3月に亡くなる[2][12]。1944年、小倉は召集され横須賀海兵団に入隊するが、発熱の末入院し、1945年8月15日に除隊となる[13]。 終戦後1946年、「三好達治の詩による三つの歌」「オーケストラのための主題と変奏曲とフーガ」を作曲[10]。1947年、内田苑子と再婚、「室生犀星、萩原朔太郎の詩による三つの歌」を作曲[2]。このころから柴田南雄、入野義朗、吉田秀和、別宮貞雄、遠山一行らとの交友が始まる[2]。1949年、NHK委嘱で「序曲」作曲、また同年作曲の「交響曲ヘ長調」は翌年NHKの懸賞で2位となる[10]。この頃NHKと契約し、放送音楽を手掛けるようになる[10]。 1951年、西欧の古典一辺倒に行き詰まりを感じ、それまでのほとんどの作品を破棄した[10][2][14]。その後はバルトーク・ベーラに傾倒し、日本民謡やわらべうたを題材にした作品を手掛けて新境地を開く[1]。1953年、2台のピアノのための「舞踊組曲」を作曲し、同年管弦楽曲に編曲。1957年、NHK委嘱によるオペラ「寝太」で第12回芸術祭奨励賞受賞[15]、これは木下順二の「三年寝太郎」を元にした作品で、小倉は日本語と音楽について考察を深める[16]。1958年、NHKテレビ「事件記者」のテーマ音楽を担当[10][17]。 1965年から桐朋学園大学で後進の指導に当たる[10]。1968年、「交響曲ト調」作曲、初演[10]。1970年出版の著書『現代音楽を語る』で、シェーンベルク、ストラヴィンスキー、バルトークほかを語る[18]。1971年、「ヴァイオリン協奏曲」作曲、同年小栗まち絵のヴァイオリン独奏、森正指揮、NHK交響楽団により初演される[2]。1974年、自伝『北風と太陽』刊行[19]。1975年、「オーケストラのためのコンポジション嬰へ調」作曲[11][16]。1978年4月、芥川也寸志と新交響楽団による「日本の交響作品展2 小倉朗」が2夜にわたって開催される[11]。 1980年、「チェロ協奏曲」を作曲し、同年岩崎洸独奏、秋山和慶指揮、東京交響楽団により初演される[20]。 座光寺公明(1958年 - 1987年)の師。 主要作品破棄されたもの、所在不明の作品は、原則除く。 オペラ
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合唱曲
放送音楽校歌著書
テープ
脚注出典
外部リンク |