日本映画演劇労働組合(にほんえいがえんげきろうどうくみあい)は、かつて存在した日本の映画・演劇の産業別労働組合である。東宝争議を指導したことで知られる[1]。略称日映演(にちえいえん)[1]。
略歴・概要
第二次世界大戦が集結した1945年(昭和20年)12月に東宝従業員組合(東宝従組)が結成され、翌1946年(昭和21年)2月、東京・砧の東宝撮影所(現在の東宝スタジオ)を舞台に東宝争議が起きる[1]。背景には、東宝は戦前から人材不足で仕事にあぶれていた学生運動家・労働運動家・社会主義者らを沢山雇入れており、これが戦後の日本共産党解禁で吹き上がったこたにある。1946年3月の賃上げ争議では、東宝従業員組合は日本共産党の指導で勝利した[2]。
同年4月3日、産業別組織である全日本映画従業員組合同盟が結成され、他の映画会社の労働組合らが同争議を支援、同年4月28日に結成されたのが[1]、同じく日本共産党に指導されていた日本映画演劇労働組合(日映演)である[2][1]。
同組合は、全日本映画従業員組合同盟と東宝従組ほか映画の労働組合、劇団の 95分会、12,662名を結集した産別単組であった[1][3]。日活労組は不参加、地方小劇場も参加していない[1]。委員長には映画プロデューサーの伊藤武郎が就任した[3]。
同組合東宝支部から脱退した従業員が第二組合を結成して分裂[3]、1947年(昭和22年)5月1日、1,500名が全国映画演劇労働組合(全映演)を結成[1]、全員が東宝第二撮影所に設立された新東宝(現在の国際放映)に入社する[3]。
1948年(昭和23年)4月8日、東宝が撮影所従業員270名を解雇、同15日のボイコットをきっかけに第3次争議が起こり、日映演はこれを指導する[1]。同年10月18日、解雇撤回により争議は終結するが、1950年(昭和25年)、200人が改めて解雇される[1]。
同組合が日本映画人同盟と共同で製作をした映画に、小沢栄太郎出演、山本薩夫監督の『暴力の街』(1950年2月26日公開、大映配給)[4][5]がある。
1952年(昭和27年)2月28日、第9回組合大会で解散を決定、翌日の同年3月1日、将来の大統一「映演総連合」の結成を目指して、日本映画演劇労働組合連合(略称映演労連)を結成、大映の村山三男が同労連の議長に就任した[6]。同月25日、これを引き継ぎ、映画演劇労働組合総連合(映演総連、現在の映画演劇労働組合連合会)が結成となった[1]。新東宝の労組(現在の国際放映労組)はこれに加盟している[7]。
著名な組合員
- 東宝支部
- 松竹支部
- 大映支部
加盟労働組合
を含む95分会
関連項目
註