映画配給社
社団法人映画配給社(えいがはいきゅうしゃ)は、かつて昭和の第二次世界大戦中に存在した映画配給を行なう社団である[1]。略称映配(えいはい)。 戦後期に存在した映畫配給株式會社(映画「快傑ハヤブサ」の製作・配給を手掛けた)との関連は不明。 沿革
データ
概要1942年(昭和17年)2月6日、映画産業の戦時統制により、設立された[1]。資本金は松竹、東宝映画(現在の東宝)、大日本映画製作(のちの大映、現在のKADOKAWA)、日本映画社(日映)の4社から各10万円(当時)の出資、政府からの補助金10万円、合計50万円とした[1]。大日本映画製作は、同社の設立に先立ち、同年1月27日に企業統合が行なわれて設立された映画製作会社である。出資理事代表には元松竹京都撮影所長の白井信太郎が就任した。同社の設立により、製作会社がそれぞれ配給業務を行うのではなく、製作会社のいかんに関係なく、全ての作品の配給を同社が一貫して行うこととなった。同年3月20日、政府の正式認可が下りた[1]。これに先立ち日映の業務部を同年2月末に吸収合併している[1]。 政府の認可申請時の当初の役員は、以下の通り[1]。 社員(参加者)は、日映の古野伊之助、松竹の白井信太郎、東宝映画の大橋武雄、大映の河合龍斎であった[1]。初年度予算は、歳入上半期が379万8,900円、同下半期が464万3,100円、歳出上半期が438万6,000円、同下半期が405万6,000円であった[1]。同年4月1日、業務を開始、全国約2,300の映画館を紅系と白系の二系統に統一し、配給の全国一元化を実施した[2]。同社が最初に配給した映画は、「紅系」が『緑の大地』(監督島津保次郎、製作東宝映画)、「白系」が『父ありき』(監督小津安二郎、製作松竹大船撮影所)で、いずれも4月1日に公開された[3]。劇映画3社、ニュース映画1社(日本映画社)の製作する作品を、紅白の2系統に流すため、製作本数は激減した。 当社配給作品の冒頭には「撃ちてし 止まむ」「一億の 誠で包め 兵の家」の文字が数秒間表記されていた。 1945年(昭和20年)6月、映画配給社と大日本映画協会を合同統合し、製作・配給・興行を一貫して統制する「映画公社」が設立されたが、同年8月15日の終戦を機に映画法は廃止され、本法人は解散した。この映画公社が「紅系」「白系」システムで最後に配給した映画は、「紅系」が『伊豆の娘たち』(監督五所平之助、製作松竹大船撮影所)で8月30日、「白系」が『千日前附近』(監督マキノ正博、製作松竹京都撮影所)で10月25日にそれぞれ公開された[4]。日本の映画全体が、同年は終戦までに29本、年内に合計43本しか公開されなかった[4]。 興行系統紅系1942年(昭和17年)当初の東京市内(現在の東京都23区内)における紅系封切館(紅1)の一覧である[2]。
白系1942年(昭和17年)当初の東京市内における白系封切館(白1)の一覧である[2]。
脚注参考文献
関連項目外部リンク |