有漢町
有漢町(うかんちょう)は、かつて岡山県の中央部(上房郡)にあった町である。現在は合併により高梁市となっている。 町役場は高梁市役所有漢地域局が置かれていたが、県道49号沿いに建設された高梁市有漢地域センター内へ2005年2月28日に移転された[3]。 地理吉備高原に位置し、高原と山林で占められていた。町の中央部にある常山公園には「石の風ぐるま」があり、有漢町のシンボルとなっている。 隣接市町村歴史沿革
日露戦争後の発展日露戦争後の明治42年、佐藤兵八、佐藤晋一など有漢村のリーダーを輩出していた大地主である佐藤家が倒産、東京で宗教思想家として活躍していた綱島梁川や当時の村長の柴原宗助が相次いで亡くなり、有漢村は存亡の危機に直面していた。佐藤家の倒産の影響は大きく、佐藤家が所有していた田畑や山林の多くが村外の人々の手に渡った。また納税できるものは全体の2割程度しかいなかった。 明治の初めから有漢村に医師として赴任していた神崎秀甫や佐藤晋一のもとで、理想の村づくりを見ていた中山祇重と蛭田伝助が有漢村の危機を救うために立ち上がった。中山祇重は柴原宗助の後の村長になり、蛭田伝助は助役となった。有漢村の立て直しの第一として、村外の人手に渡った田畑を村に買い戻すことから着手した。そのためには多額のお金が必要になるため、信用組合を創立、養魚場の経営、大正醸造の経営、村民へ副業のすすめ、山林の村営化、貸家事業をおこなった。蓄えた資金で土地を買い戻し、さらに教育にも力を入れていった。 有漢教員養成所開校から閉校まで明治時代、学校の先生になるには「師範学校」に進まなければいけなく、有漢教員養成所などの教員養成所ができるまでは、岡山県には岡山市に岡山県師範学校の1校だけしかなかった[注釈 1]。明治37年の日露戦争に若い人たちが出兵したため学校に若い先生がいなくなってしまった。村民は何とかしないといけないと考え、村役場主導で、現在の有漢西小学校の敷地内にあった農業補助学校を教員養成所に変えて教員を増やすこととした。農業補習学校校長の片山泰治郎が農業の勉強のために作った学校だったが、入学する生徒が少なかったことも影響していた。県議会議員の佐藤晋一や上房郡内の多くの有識者の賛同をもらい、岡山県の認可を得て明治37年、農業補習学校併設の有漢教員養成所(現在の有漢西小学校の地に)が開校されるに至った。教員養成所の開校1年目の生徒数は、男子31人、女子20人の43人。最初の10年間は有漢村の財政が厳しかったため、運営自体厳しいものであった。そんな時代でも村民は教育の灯を消してはならないと懸命に踏ん張った。教員養成所は次第に岡山県内だけでなく全国的にも知られていくようになった。大正2年、金岡助九郎が有漢高等小学校の校長として赴任し、同じく教員養成所の所長となった。金岡助九郎はその後、教員養成所に専念して教員養成に総力をあげていった。財団法人にして学校の経営のための資金を多くの人から寄付してもらえるようにした。そこで学ぶ生徒たちの授業料は無料になった。女子の教育にも力を入れるため大正10年4月、高等女学校を開校した。授業料は村が負担したため、有漢村の就学率は99.1%と病人を除けば全員であった。有漢教員養成所の評判は全国に広がり入学希望者が多くなり定員を400名に増やした。日本国内からだけでなく台湾から多い時で70人、朝鮮からも数名の生徒を受け入れていた。そしてこの年から裁縫専科教員部(女子)も開設したため、敷地内には1000人以上の生徒で溢れていた。校舎も白亜の校舎として新築され、洋風建築の学校として岡山県内だけでなく日本全国に注目されていた。昭和3年に教員養成所が高梁町(現在の高梁市)に移転されるまでの25年間に、教員養成所の卒業生は3600人以上にのぼる。 大字地域教育
陰山メソッドフラグシップ有漢西小学校は2015年(平成27年)年1月に隂山英男支援のもと、岡山県で初めて陰山メソッドを導入した。 交通
名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事人物脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク
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