朝鮮鉄道朝鮮鉄道株式会社(ちょうせんてつどう)は、日本統治時代の朝鮮半島に存在した鉄道会社である。 概略1923年9月1日、それまで朝鮮にあった朝鮮中央鉄道、南朝鮮鉄道、西鮮殖産鉄道、朝鮮森林鉄道、朝鮮産業鉄道、両江拓林鉄道の6社が合併して発足した。資本金は5,450万円。 役員選定は紛糾し、製紙王と呼ばれた朝鮮森林鉄道元社長の大川平三郎が社長に仮就任するも、1923年末には朝鮮中央鉄道元社長の野村龍太郎が社長に就任[1]、1924年1月には、株主の前山久吉が推した渡辺嘉一(北越鉄道経営者で朝鮮中央鉄道元取締役)が社長に就任、副社長には朝鮮総督府から提出された人事案を容れて総督府官僚の入沢重麿を就かせ、その他取締役に武和三郎(元鉄道技師[2])、朝鮮産業鉄道元社長の岡村左右松、南朝鮮鉄道元社長の坂出鳴海、監査役に元釜山領事で前山と親しい室田義文、西鮮殖産鉄道元社長の山本悌二郎、総督府が推した東洋拓殖理事・尾崎敬義が就任した[3]。さらに1926年には大川平三郎が社長を奪還し、副社長には両江拓林鉄道元社長の福原俊丸が就任した[1]。 私鉄ながら朝鮮総督府鉄道局から継続的に人材が重役として送り込まれるなど、公との結びつきが強い会社であった。建設した路線及び地域的な広がり等も含め、当時の朝鮮における最大の私有鉄道であった。朝鮮総督府鉄道が「鮮鉄」と略称されていたのに対し、朝鮮鉄道は「朝鉄」と略称された。 保有していた路線のうち慶東線や慶北線などは後に朝鮮総督府が買収し、また他の民営鉄道会社に売却された路線もあった。終戦時まで朝鮮南部に所有していた路線も、米軍の軍政期に国有化された。現在もKORAILなどの路線の一部区間に残り、営業を続けている。 植民地期朝鮮の私鉄会社日本統治下の朝鮮においては1913年の全北鉄道を嚆矢として1930年までに22社26路線に免許が交付された[3]。これら私鉄会社の公称資本金は1000万円~2000万円であったが、1919年末日本では株式会社1万3174社のうち公称資本金500万円以上のものは357社にすぎず、第一次大戦後、朝鮮に巨大な株式会社が一挙に創立されたと言える[3]。こうした朝鮮への投資ブームの中、朝鮮の私鉄会社は「朝鮮総督府より年八分の補給利子を受くる特典を条件として」公募されたため、申込数が1000倍以上に達したものもあった[3]。 合併前の各社朝鮮中央鉄道が合併後の存続企業となり、他5社は合併時に解散し朝鮮鉄道に吸収された。
主な路線終戦当時に所有していた路線かつて所有していた路線
標準軌狭軌
参考文献
出典
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