木村庄之助 (35代)
35代 木村 庄之助(さんじゅうごだい きむら しょうのすけ、本名:内田 順一(うちだ じゅんいち)、1946年10月29日 - )は、大相撲の立行司の一人。立浪部屋所属。 経歴・人物宮崎県延岡市出身。小学生の頃から相撲に夢中で、初代若乃花の大ファンであった。元十両・松恵山が切り盛りしていたちゃんこ店『松恵』へ松恵山に「行司になりたい」と話しに行き、最初は断られたが熱心に頼み込むと「それなら俺が頼んでやるよ」と承諾された[1]。延岡市立南方中学校卒業後、1962年に松恵山が在籍していた立浪部屋に入門。初名木村順一で初土俵を踏む。 順一を名乗っていた70年代前半(北・玉時代)より幕内取組の場内アナウンスを担当していたが、行司のかけ声の時とは違い、幕内土俵入りの力士紹介で「◯◯県出身、△△部屋」など滑舌が良く、明瞭でよく通る声が印象に残る。第52代横綱北の富士が復活の優勝を全勝で遂げた1972年9月場所千秋楽の幕内後半取組から表彰式までの場内アナウンスを担当(場内アナウンスとしては、輪・湖時代を一番長く担当)した。 入門当時は「行司部屋」が独立しており、独身の若い行司が共同生活を送っていた。相撲部屋のようにちゃんこを作り、兄弟子の世話をする毎日であった。そのことから、十両格の資格者になったこと、初土俵から22年かけてやっと足袋が履けるようになったことがうれしい思い出として本人の中に残っている。十両格昇進は1984年1月場所のことであるが、これは蔵前国技館時代最後の十両格昇進である[1]。 その後、十両格行司まで場内アナウンスを担当し、横綱千代の富士の記録に残る節目の取組に関わっている。
同時期に28代庄之助が8代式守錦太夫時代、三役格行司になる1974年頃まで幕内の場内アナウンスを担当していた。 2007年5月場所から立行司に昇格し、第37代式守伊之助を襲名した。その際には宮崎県出身初の立行司ということで、当時の東国原英夫宮崎県知事から幟が贈られた。また、戦後生まれで初の立行司でもある。 2008年5月場所より34代木村庄之助の停年(定年。以下同)退職に伴い35代庄之助を襲名した[1]。 初めて庄之助としての本場所となった2008年5月場所初日には宮崎県の県章と出身地「延岡」の文字をあしらった模様の入った行司装束で、結びの横綱朝青龍-小結稀勢の里戦を裁いた。また、同年5月23日に延岡市観光大使に任命された。 2009年9月場所10日目には、横綱土俵入りを務めた後にめまいなどを訴えて救急車で病院に運ばれ、休場。結びの横綱朝青龍-関脇稀勢の里戦は、もう一人の立行司の38代式守伊之助(のち36代庄之助)が裁いた。 庄之助最後の場所となった2011年9月場所千秋楽、国技館には出身地の延岡市より120人もの後援者が観戦の中、同じ立浪一門の横綱白鵬の後援会を通じて贈られた行司衣装(その日使われた三つ揃いの化粧廻しと同じ衣装)で白鵬の横綱土俵入りを務めた。白鵬が優勝を決めた結びの一番の後、弓取式を終えて花道を引き上げると、白鵬から花束を贈られ、長年の土俵人生を労われた。優勝パレードのオープンカーにも白鵬と同乗者の機転で座席中央に乗せられている[1]。 停年退職後の2013年7月場所6日目、向正面赤房下溜席に、2014年3月場所7日目にも向正面白房下溜席に内田の観戦する姿が見られた。 2023年現在では、木村庄之助を過去に襲名し、務めた経験がある人物の中では最若年者となっている。(これは、37代が2022年7月に、36代が2022年11月にそれぞれ、相次いで死去したことによるもの。) 略歴
逸話
脚注
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