朽木 為綱(くつき もりつな)は、江戸末期から明治前期の大名、華族。朽木分家の14代目の当主で、丹波国福知山藩第13代(最後)の藩主にして同藩初代(最後)の知藩事。
生涯
弘化2年(1845年)11月5日、12代藩主朽木綱張の長男として生まれる。父が初め養嗣子としていた紘綱(8代藩主朽木昌綱の三男米倉昌寿の五男)が早世したため嫡子となる。なお、為綱の最初の妻の恒子は、紘綱の妹である。文久元年(1861年)3月15日、14代将軍徳川家茂に拝謁する。文久2年12月16日、従五位下・伊予守に叙任する。慶応2年(1867年)4月17日、綱張が死去したため家督を継いだ。
慶応3年(1867年)12月13日、藩士を京都を派遣し、幕命により旧京都所司代邸の警備にあたる。慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いでは旧江戸幕府軍に合流しようとしたものの、幕府軍が敗退したため引き返した。そして、西園寺公望率いる山陰道鎮撫使に降伏した。2月6日、為綱は上洛して恭順の姿勢を示した。新政府から北越出兵、丹波・丹後などの代官地・幕府領などの接収を命じられた。2月24日、藩士の一部と旧幕府側との連携の疑いをかけられて、謹慎する。
明治2年(1869年)6月20日、版籍奉還により福知山藩知事に任じられる。明治4年(1871年)7月15日の廃藩置県で免官となり、9月に東京に移った。明治5年(1872年)5月14日、養子の綱鑑に家督を譲って隠居した。その後、福知山に戻って士族の救済に努めた。明治11年(1878年)7月27日、綱鑑の隠居により再び家督を継いだ。留学中の綱鑑の結婚に反対し、隠居させて実家に戻したのである。その後は富教会を設立して士族の救済を本格的に努めたという。明治16年(1883年)4月26日に死去した。享年39。
実子に陸軍少将・貴族院議員を務め、火薬の研究者としても有名な子爵朽木綱貞がいる。
系譜
- 父:朽木綱張(1816年 - 1867年)
- 母:不詳
- 正室:恒子 - 米倉昌寿の娘
- 継室:郁子 - 青山忠良の娘
- 生母不明の子女
- 養子
朽木家 福知山藩13代藩主 (1867年 - 1871年) |
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